平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や近衛大路との交差点の南東角に左獄(さごく)という獄舎、一条大路から中御門大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。
[2]
南部では、北小路との交差点の西側に平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)が置かれた。
[2]
昭和六十(1985)年度の左京八条二坊の立会調査
[3][4]では、平安時代から江戸時代、現代まで連綿と続く油小路の路面が検出されている。
中御門大路との交差点の南側には高陽院(かやのいん)があり、治安元(1021)年に藤原頼通(藤原道長の子、平安時代中期の摂政・関白)が敷地を広げて四町規模の大規模な邸宅を造営した。
[2]
その後、後冷泉天皇以降五代の天皇の里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった
[2]が、『中右記』寛治六(1092)年六月七日条によれば、高陽院にはしばしば虹の市が立った
[5]という。
平安時代末期には、東市はかなり寂れていたとみられる
[6]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
高陽院は、後鳥羽上皇の御所として元久二(1205)年に造営された時期には、二町規模(油小路以東)に縮小した。
[2]
後鳥羽院政の拠点となったが、承久の乱後の貞応二(1223)年に放火により焼亡し
[7]、以後は再建されなかったようである。
安貞元(1227)年に内裏が未完成のまま焼失して以降、里内裏であった「閑院(かんいん)」(二条大路のとの交差点の南東角)が正式な内裏として扱われ、正元元(1259)年に放火によって焼失するまで使用された。
[8]
閑院内裏では、周囲の3町四方が「陣中(じんちゅう)」と呼ばれる特別な区画とされ、油小路では冷泉小路~三条坊門小路の西側に「裏築地(うらついじ)」と呼ばれる目隠し用の塀が設けられて、冷泉小路~三条坊門小路の油小路路面中央部には「置路(おきみち)」と呼ばれる貴人専用の通路が設けられた。
[8]
南部では、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)を中心に八条院町が成立した。
[9]
油小路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[9][10]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
発掘調査
[11][12](後述)でも、油小路沿いで検出された遺構や出土した遺物から八条院町における鏡生産や刀装具生産などの銅細工師の活動の痕跡がうかがえる。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[13]際、この小路には大炊御門大路との交差点に篝屋が設置された
[14]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[15][16]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[17]
室町時代には商業街となって酒屋が集中し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から七条大路にかけて26軒の酒屋があったようである。
[18]
『碧山日録』寛正二(1461)二月十七日条には、同年に起こった寛正の大飢饉の際、願阿弥(がんあみ/時宗の僧)が多くの餓死者を鴨川の河原とこの小路の空き地に葬った旨の記述があり、この時期にはこの小路が市街のほぼ西限に位置していたようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の四条大路以南を荒廃させた。
[19]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は今小路(現在の元誓願寺通)~一条大路~土御門大路が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の西限に位置し、概ね一条大路以北ではこの小路の東側に上京の市街が広がっていた。
[20]
また、四条坊門小路~五条大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、下京の市街のほぼ西限となった。
[20]
天文五(1536)年に起こった天文法華の乱によって京を追われていた本能寺が、天文十一(1542)年に後奈良天皇の勅許によって京への帰還を許され、四条坊門小路との交差点の北東角に移転したと推定されており
[21]、天文十六(1547)年より再建が行われたようである
[22]。
『熊谷(純)家文書』には、天文十四(1545)年六月に油小路との交差点の北東角の土地が土倉の沢村氏から本能寺に売却された記録が残っている。
[23]
元亀元(1570)年、織田信長が上洛して本能寺に入り
[24]、天正八(1580)年、村井貞勝(むらいさだかつ/織田信長の家臣)に命じて本能寺城としての普請(工事)を行った
[22][25]。
天正十(1582)年、「本能寺の変」が起こって信長は自害に追い込まれ、本能寺(城)は焼失した。
[26]
天正十一(1583)年、豊臣秀吉は二条大路との交差点の南東角にあった妙顕寺
[27]を寺之内通に移転させて、跡地に自身の城館(妙顕寺城)を築き、天正十三(1585)年に完成したという。
[28][29]
妙顕寺城は周囲に堀をめぐらし、天守もあったようであり、北を二条通、南を御池通、東を西洞院通、西を油小路通に囲まれた範囲を占めていたと推定されているが、天正十五(1587)年の聚楽第(じゅらくてい)完成に伴って廃城となった。
[28][29]
本能寺は天正十五(1587)年に秀吉によって現在地(寺町通と御池通との交差点を下がった場所)へ移転させられた。
[30]
天正十八(1590)年、油小路通は豊臣秀吉によって再開発された。
[19]
天正十九(1591)年、この通の東側に沿って梅小路通の北~九条通に、秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ、九条通付近で西に屈曲していた。
[31][32]
この御土居をめぐらす際、油小路通を中心としたという。
[33]
当初は油小路通には出入り口は設けられなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、九条通付近に江戸時代に入ってから御土居の出入り口が開かれたようである。
江戸時代には、北は元誓願寺通から南は七条通まで、脇さし屋・鞘ぬし・小袖表・質屋・ほり物師・針屋・仏具屋などの商家があり、その南は伏見への往還道に通じていた。
[34]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として網代塗団扇(あじろぬりうちわ)・仕立刀・縊染物(くくしそめもの)・湖粉(ごふん)・土風炉(つちふろ)・池川針が挙げられている。
[35]
また、各藩の京屋敷がこの通り沿いに最も多かったようである。
[36]
『洛中洛外図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)には、油小路通を進む朝鮮通信使の行列が描かれている。
『雍州府志』によれば、油小路通の南の不動堂(塩小路通との交差点の南にある不動堂明王院)辺りは葱の生産が行われていたようである。
[37]
宝永五(1708)年三月八日、姉小路との交差点を下がった地点から出火し、東は鴨川西岸、西は油小路、北は今出川通、南は錦小路通までの範囲が延焼した。
[38]
これを「宝永の大火」と呼ぶ。
慶応三(1867)年十一月十八日、新選組局長の近藤勇は伊東甲子太郎(いとうかじたろう)を妾宅(木津屋橋通の北、醒井通[現在の堀川通]の東)に招いて酔わせ、伊東の帰路、木津屋橋通と油小路通との交差点付近で大石鍬次郎らに暗殺させた。
[39]
新選組は伊東の遺体を北へ引きずって七条油小路(七条通との交差点)に放置し、遺体を引き取りに来た伊東の同士をまとめて粛清しようと待ち伏せ、駕籠を用意して駆け付けた伊東の同士7人と激しい戦闘となり、3人が命を落とした。
[39]
これを「油小路事件」もしくは「七条油小路の闘い」
[39]という。
現在の油小路通は八条通で堀川通が合流するため、八条通以南は広い通りである。
平成十五(2003)年の京都南大橋の開通によって伏見区内の油小路通と一本につながり、幹線道路としてさらに重要性を増している。
八条通以北では一方通行の狭い通りである。