平安時代、この小路沿い(北側)には、朱雀大路をはさんで東側に左京職(さきょうしき/左京の行政をつかさどる役所)、西側に右京職(うきょうしき)が置かれた。
[2]
また、坊城小路との交差点付近には弘文院(こうぶんいん)・勧学院(かんがくいん)・奨学院(しょうがくいん)という公家の子弟の教育施設があり、教育街の様相を呈していた。
[2]
発掘調査
[3][4]によって、平安時代前期には姉小路の南側、宇多小路をはさんで両側に平安京で最大級の掘立柱建物を持つ一町規模の邸宅があったことが判明している。
平安時代末期には、西洞院大路との交差点の北東角に保元の乱で後白河天皇方の拠点となった高松殿(たかまつどの)、北西角に平治の乱で焼き払われた藤原通憲(ふじわらのみちのり/信西)の邸宅があった。
[5]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、発掘調査(後述)
[6][7]によれば、朱雀大路との交差点の北西角が平安時代中期には宅地となっていたようであり、また、朱雀大路との交差点を西入った地点では、姉小路北側溝・南側溝が鎌倉時代に改修されたことが判明し、朱雀大路との交差点周辺では鎌倉時代まで道路が存続していたことがうかがえる。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[8]際、この小路には西洞院大路との交差点に篝屋が設置された。
[9]
南北朝時代には足利直義(ただよし/尊氏の弟)の邸宅が万里小路との交差点の北西角にあったと推定されている。
[10]
初期には幕府の政務は基本的に直義が行ったとされており
[10]、室町幕府発祥の地ともいえる。
正平五/観応元(1350)年~正平七(1352)年の観応の擾乱による直義の失脚後は、それまでの直義邸(三条坊門殿)に足利義詮(よしあきら/尊氏の子で後の第二代将軍)が入ったが、将軍となった後の貞治三(1364)年、義詮は三条坊門殿の東隣に新邸を建設した。
[11]
この邸宅は、義詮の子の足利義満(第三代将軍)に引き継がれ、永和四(1378)年に花の御所(室町殿)に移るまで義満の居所となった
[10]が、それ以降も歴代の足利将軍に「下御所(しものごしょ)」と呼ばれて重要視され、しばしば使用された。
[11]
『庭訓往来』には、京都名産の1つとして「姉小路の針」が挙げられている。
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、東京極大路から猪隈小路にかけて9軒の酒屋があったようである。
[12]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させた。
[13]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は高倉小路~西洞院大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね烏丸小路~町小路が下京の市街を形成した。
[14]
下京の市街の実質的な北限となったとみられる。
姉小路通は天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発された。
[13]
江戸時代には職人の町であり、車貸し・木履屋・釘鍛冶・桶樽屋などがあった。
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東は寺町通から西は神泉苑通までで
[16]、間之町通と東洞院通の間で分断していたようである。
[15]
江戸時代までは「あねがこうじ」もしくは「あねのこうじ」と呼ばれていたが、現在では「あねやこうじ」と呼ばれている。
千本通との交差点の東には、姉小路通を隔てて佛教大学二条キャンパスと立命館大学朱雀キャンパスが向かい合い、再び教育街の様相を見せているのは不思議な因縁である。