「菖蒲小路」というが、この小路は右京の湿地帯を通っており、小路沿いに菖蒲の咲く場所があったのであろうか。
平安時代、この小路沿いの中御門大路から三条大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)が多く、三条大路~四条大路の大部分は天台座主(てんだいざす/天台宗の貫主)良真(りょうしん)の領地となっていたようである。
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早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成された。
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この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
平成三(1991)年度の右京一条三・四坊・二条二・三坊・三条一坊の調査
[4]では、中御門大路との交差点を上がった地点で菖蒲小路の東側溝が検出された。
平安時代前期の遺物が出土し、菖蒲小路は平安時代前期には機能していたようである。
令和三(2020)年度の右京一条四坊二・七町の発掘調査
[5]では、近衛大路との交差点を上がった地点で平安時代中期の菖蒲小路西側溝が検出された。
同地点では、江戸時代前期に妙心寺の塔頭である光國院・麟祥院(ともに明治時代末期に妙心寺北門付近へ移転)が建立されたが、江戸時代の絵図
[6]により、菖蒲小路が光國院と麟祥院の境界として踏襲されたと考えられている。
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、菖蒲小路が概ね近衛大路~冷泉小路で小道として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
「河原図子通」の名は、JR山陰本線(嵯峨野線)高架化前は踏切の名称となっていたが、正式名称ではなく通称である。
小路名は町名としても残っておらず、完全に消滅してしまっている。