一条大路と九条大路のほぼ中間に位置する小路。
美名で名高かった。
昭和六十三(1988)年度の左京五条一坊十町の発掘調査
[1]では、壬生大路との交差点を東へ入った地点が平安時代後期~室町時代前半は都市的様相を呈しており、室町時代後期以降に耕作地となったことが判明した。
平安時代~鎌倉時代、左京のこの小路沿いには公家の邸宅などがあった。
[2]
正暦二(991)年、坊城小路との交差点の南東角に壬生寺が創建され、建保元(1214)年に坊城小路を隔てて向かい側(西側/現在地)に移転した。
[3]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
『拾芥抄』所収「西京図」によれば、右京のこの小路沿いには「小泉荘(こいずみのしょう/摂関家の荘園)」となっている部分が多かったようである。
平成二十五(2013)年度の寺町旧域の発掘調査
[4]では、東京極大路との交差点の東方(京外)で綾小路の延長部分(綾小路末)とみられる道路の遺構が検出された。
この道路は平安時代後期(12世紀前半頃)に敷設されたとみられ、平安時代後期~鎌倉時代の道幅は綾小路(『延喜式』記載の規模/四丈=約12m)の半分以下の約5mであったことが判明した。
室町時代~戦国時代(15世紀後半頃)までに道幅は約半分に縮小しながらも、天正十九(1592)年頃に大雲院(だいうんいん/織田信長の嫡男・信忠[のぶただ]の菩提を弔った寺)がこの地に移転するまで道路として機能したようである。
妙法院(みょうほういん/現在は東山七条交差点の北東にある寺院)は、天正十七(1589)年前後に現在地に移転する
[5]までは綾小路小坂(祇園社[八坂神社]の南西)にあり
[6]、「綾小路御所」「綾小路宮」「綾小路坊」などと呼ばれたようである(綾小路宮や綾小路坊は第十八代門主の尊性法親王[そんしょうほっしんのう/守貞親王(後高倉院)の皇子]の通称としても用いられた)
[7]。
『祇園社記』所収の年月日未詳の文書によれば、妙法院は東は祇園中小路
[8]、西は鴨川、北は四条大路、南は綾小路で囲まれた区域の東寄りの一角を占めていた
[9]ようであり、鴨川をはさんで道はつながっていなかったものの、鴨川の東側でもこの小路の延長線上にあたる街路が「綾小路末」(もしくは単に綾小路)と呼ばれたと考えられる。
『祇園社記』によれば、元亨三(1323)年には町小路との交差点付近に紺座(商工業座)があったようである。
[10]
また、『祇園執行日記』観応元(1350)年七月十日条によれば、東京極大路との交差点付近に祇園社(八坂神社)の用を務める銅細工師の工房があったようである。
室町時代には町小路から西洞院大路にかけて油屋が点在し
[11]、富小路から猪隈小路にかけて12軒の酒屋があった
[12]。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させた
[13]が、明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は東洞院大路の東~油小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね烏丸小路~油小路の西は下京の市街を形成した。
[14]
『晴富宿禰記』延徳四(1492)年四月二十四日条には、綾小路櫛笥(櫛笥小路との交差点)より西に家があった旨の記述があり、この付近では綾小路が道路として機能していたことがうかがえる。
壬生寺の周辺では集落が形成され、「壬生村」と呼ばれた。
永正年間(1504~1521)には室町小路との交差点の西に善長寺(ぜんちょうじ)が創建され、徳川家康が上洛した際は定宿となっていたが、天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって寺町に移された。
[15]
天正十八(1590)年、綾小路通の左京部分は秀吉によって再開発された。
[13]
また、天正十九(1591)年には、秀吉によって現在の河原町通の西側と西土居通の東側に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた。
[16]
当初はこの通りには出入り口は設けられたなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってから西土居通の東側に御土居の出入り口が開かれたようであり、「綾小路切御土居絵図」には出入り口の様子が描かれている
[17]。
江戸時代の綾小路通は、東は寺町通から西は千本通までであり
[18][19]、木綿足袋などの商家があった。
[20]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として木綿足袋、観音堂辻子、精好(せいこう)が挙げられている。
[21]
現在の綾小路通は、一部を除いて一方通行の狭い通りである。
西洞院通との交差点を東へ入ったところには、国の重要文化財に指定された杉本家住宅があり、町家として京都市内最大規模を誇っている。