道祖大路と木辻大路の中間に位置する小路。
この小路に沿って、西室町川が一条大路から勘解由小路(松井小路)まで南流していたとされる。
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平安時代、この小路の西側、土御門大路以北には宇多院(うだいん/宇多天皇の譲位後の御所)があった。
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四条大路との交差点の南東角には藤原邦恒(ふじわらのくにつね)が建てた阿弥陀堂があり
[4]、『春記』天喜二(1054)年五月三日条によれば、この阿弥陀堂には定朝(じょうちょう/平安時代後期の仏師)作の阿弥陀如来像が安置され、美しい庭園もあったという。
また、三条大路との交差点の南西角には天台座主(てんだいざす/天台宗の貫主)良真(りょうしん)の住房があり
[5]、嘉保元(1094)年にはこの住房に強盗が押し入ったとの記録がある。
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この小路沿いは早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には三条大路から五条坊門小路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
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この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
昭和六十三(1988)年度の右京八条三坊の発掘調査
[7]では、八条坊門小路との交差点を上がった地点で平安時代前期~後期の馬代小路の路面と東側溝が検出されており、右京南部でも早い段階で道路が形成されていたことが判明した。
平安時代後期に東側溝を拡張して設けたとみられる石敷施設と木組暗渠が検出され、水利施設の一部と考えられている。
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、馬代小路が概ね一条大路~三条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
馬代通は、右京の南北路で平安時代と同じ名で呼ばれる数少ない通りの1つである。
旧二条通以北は昭和時代初期まで「三中東通」と呼ばれていたが、昭和三(1928)年に馬代通に改称されたようである。
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沿道には学校が多く、仁和寺街道との交差点の南東には京都府立医科大学花園学舎が、太子道との交差点の北には花園大学がある。