この小路沿いは早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から六条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。[3]
また、平安時代後期には三条大路との交差点の南東角には天台座主(てんだいざす/天台宗の貫主)良真(りょうしん)の住房があり[5]、嘉保元(1094)年にはこの住房に強盗が押し入ったとの記録がある。[6]

この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

発掘調査[7][8](後述)によって、中御門大路との交差点部分で恵止利小路の道幅が中世には小路の中央付近まで縮小し、周辺は中世以降耕作地となったことが判明した。

明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、恵止利小路が概ね近衛大路~五条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。

現在の西小路通は、太子道以北と阪急京都線以南の一部区間を除いて歩道も設けられ、比較的広い通りとなっている。
ほぼ恵止利小路に重なるが、恵止利小路と西小路通との間に連続性があるとは言いがたい。

◆ 平成九(1997)年度の右京一条三坊十三町の発掘調査[7]では、中御門大路との交差点を上がった地点で恵止利小路の西側内溝・外溝が検出されている。
調査地点付近では平安時代前期を限りに宅地は廃絶し、室町時代中期以降に耕作地として開墾されたことが判明している。

◆ 平成二十三(2011)年度の右京一条三坊十三町・二条三坊十六町の発掘調査[8]では、中御門大路との交差点部分で平安時代前期の恵止利小路の礫敷き路面が、交差点を下がった地点で平安時代前期の恵止利小路の路面と西側溝がそれぞれ検出された。
当初の西側溝が10世紀後半に埋まり、以降徐々に東側へ溝を付け替えることによって、中世には小路の中央付近まで道路が縮小していったものと考えられている。
侵食された部分からは建物跡などは一切検出されていないので、調査地点付近は中世には耕作地化したようである。

◆ 平成二十四(2012)年度の右京二条三坊十五・十六町の発掘調査[9]では、春日小路及び大炊御門大路との交差点部分の平安時代前期の恵止利小路路面と、前年度の調査[8]で検出された恵止利小路の西側溝の南延長部が検出された。
中世には交差点の大部分が降水時には浸水していたようである。


[1] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、157頁)

[2] 「九条御領邊図 後慈眼院殿御筆」『九条家文書 三』宮内庁書陵部、1973年

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[5] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、336頁

[6] 『中右記』嘉保元(1094)年九月一日条

[7] 小檜山一良・小松武彦ほか「平安京左馬寮-朝堂院跡・平安京右京一・二条二~四坊」『平成9年京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財調査研究所 1999年

[8] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京一条三坊十三町・二条三坊十六町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2011-4 2012年

[9] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京二条三坊十五・十六町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2012-14 2013年