この小路沿いは早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から六条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
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また、平安時代後期には三条大路との交差点の南東角には天台座主(てんだいざす/天台宗の貫主)良真(りょうしん)の住房があり
[5]、嘉保元(1094)年にはこの住房に強盗が押し入ったとの記録がある。
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この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
発掘調査
[7][8](後述)によって、中御門大路との交差点部分で恵止利小路の道幅が中世には小路の中央付近まで縮小し、周辺は中世以降耕作地となったことが判明した。
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、恵止利小路が概ね近衛大路~五条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
現在の西小路通は、太子道以北と阪急京都線以南の一部区間を除いて歩道も設けられ、比較的広い通りとなっている。
ほぼ恵止利小路に重なるが、恵止利小路と西小路通との間に連続性があるとは言いがたい。