平安時代、左京のこの小路沿いには公家の邸宅などが点在したほか、市井の民家が集中していたと推定されている。
[2]
平成二(1990)年度の右京六条四坊九町の発掘調査
[3]では、山小路との交差点を西へ入った地点で平安時代前期~中期の五条大路路面と南側溝が検出され、路面上には車の轍跡が多数確認されており、右京西部でも平安時代中期頃までは大路が活発に使用されていたことが判明している。
貞観元(859)年、藤原良相(ふじわらのよしみ/平安時代前期の公家)が居宅を有しない藤原氏の女性を扶養するための福祉施設として、東京極大路との交差点の南西角に「崇親院(すうしんいん)」を創建した。
[4][5]
この大路を東進し、清水坂を上るルートが清水寺への参詣路であったことから、鴨川に架かる五条橋は「清水寺橋」とも呼ばれた。
[6]
五条橋は、平安時代の早い段階から架橋されていたと考えがちであるが、文献上の初見は平安時代後期の承暦四(1080)年である。
[6][7]
この橋は、架橋費用を清水寺の僧侶が勧進(かんじん/説法を行って寄付を集めること)して調達した勧進橋であった。
[7]
五条橋は源義経と弁慶の伝説であまりに有名であるが、平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』では「何れか清水へ参る道、京極くだりに五条まで、石橋よ、東の橋詰四つ棟六波羅堂」と歌われており、当時は石橋が架かっていたことがうかがえる。
平安時代末期~鎌倉時代には、西洞院大路との交差点を中心とする地域でしばしば火災が発生した。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[8]際、この大路には東京極大路・東洞院大路との各交差点に篝屋が設置された
[9]。
『太平記』によれば、足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際や南北朝時代の争乱でこの大路がしばしば戦場や軍勢の通路となった。
南北朝時代には、祇園会で山鉾巡行が行われるようになった。
[10]
貞治三(1364)年頃から、旧暦の六月七日(西暦の7月17日)と旧暦の六月十四日(西暦の7月24日)の両日に山鉾巡行が行われるようになったと推定されており
[11]、六月七日には四条大路→東京極大路→五条大路が山鉾の巡行路となったと考えられている
[12]。
室町時代には、この大路の左京部分は商工業街として発展した。
[7]
鳥座・伯楽座があり、材木屋が多かったようである。
[7]
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、東京極大路から猪隈小路にかけて17軒の酒屋があったという。
[13]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この大路の左京部分を荒廃させ
[14]、祇園会も33年間の中断を余儀なくされた
[15]。
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この大路は東洞院大路の東~油小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の南限に位置したが、実質的な市街は東洞院大路や油小路との交差点付近など一部分にとどまった。
[16]
この通りより南は田園風景が広がっていたという。
[17]
惣構の南限に位置したことから、天正七(1579)年の段階で「五条通堀」という堀が掘られていたようである。
[18]
この通りが惣構の南限となったのは、惣構の中に住んでいる人々の境界意識(山鉾巡行も神輿渡御の還幸もこの通りを南限に巡行されていた)や脅威に備えるため(五条橋で東国へつながっていた)といった理由が考えられるという。
[18]
祇園会は明応九(1500)年に再興され
[19]、戦国時代の京都の景観を描いたとされる『歴博甲本洛中洛外図屏風』には、五条大路を進む山鉾巡行の様子が描かれている。
天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された
[14]が、同年、秀吉は方広寺の大仏殿建立に伴って五条橋を二筋南の六条坊門小路に移してしまった。
[20]
橋とともに「五条」の名も奪われ、この通り沿いで五条の名が残ったのは、西洞院通との交差点の西にある五条天神社ぐらいなものである。
五条天神社は平安遷都の際の創建とも空海の創建ともいわれ
[21]、疫病から守る神様として信仰を集めたが、室町時代には疫病そのもののように考えられることもあったようで、後崇光院(ごすこういん/後花園天皇[ごはなぞのてんのう]の父)の日記『看聞御記』応永二十八(1421)年四月二十八日条には、五条天神社に流罪の宣下が下された旨の記述がある。
「松原通」の名は、応仁の乱後、民家が希少になり、玉津島神社の松並木のみ繁栄していたことに由来するようである。
[14]
応仁の乱以降の町並みを描いたとされる『中昔京師絵図』にも、この通りに面して松並木が描かれている。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって現在の新千本通の西側に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた。
[22]
当初は、松原通には出入り口が設けられなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってからこの通りにも御土居の出入り口が開かれたようである。
江戸時代の松原通は、東は寺町通までで、矢師・沓屋・薪炭屋・なめし皮屋・渋紙屋・紙子屋・絵具屋などの商家があった。
[23]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として半女桃・扇地紙・腰張紙・煮紙子(にがみこ)・渋紙・紙張が挙げられている。
[24]
市街は大宮通の西までであったが、さらに西にも小道が通じており
[25]、『西院の歴史』の記述
[26]や明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、松原通が千本通を超えて西京極大路推定地のさらに西へ続いていることから、少なくとも佐井通(当時は丹波街道)の西までは道路が残っていたと考えられる。
また、江戸時代に描かれた『京大絵図』や『京都指掌図 文久改正』を見ると、寺町通以東も鴨川を越えて清水寺の門前まで道が続いており、鴨川にも簡素な橋が架けられていたようである。
祇園会の山鉾巡行路は、江戸時代もそれ以前と大きな変更はなく、六月七日の巡行(江戸時代以降「前祭(さきまつり)」と呼ばれる
[27])では、四条東洞院(東洞院通との交差点)を出発点として四条通→寺町通→松原通を巡行していた。
[28]
新町通との交差点は「十念の辻」と呼ばれ、罪人は毎年十二月二十日、この地で僧侶の念仏を聞いて処刑場に消えたという。
[29]
祇園祭の山鉾巡行路は長らく大きな変更がなく、昭和三十(1955)年まで前祭の巡行路はが四条通→寺町通→松原通であったが、前祭の巡行路は昭和三十一(1956)年に四条通→寺町通→御池通に、昭和三十六(1961)年には四条通→河原町通→御池通に変更され、松原通は巡行路から外れてしまった。
[30]
現在の松原通は、大宮通以東では一方通行の狭い通りである。
清水寺への参詣路としても、五条坂や二寧坂・産寧坂に比べてややマイナーなルートとなっており、松原通は全体として地味な印象は否めない。
新町通~大宮通の松原京極商店街は、伝統ある商店街である。