平安京と街路の変遷

未完の都・平安京
平安京は、これまでの藤原京・平城京・恭仁京(くにきょう)・難波京(なにわきょう)・長岡京の建設によって熟成されたノウハウが最大限に活用され、見事に計画された都であったが、財政難から建設ははかどらず、長期間にわたる工事は財政をさらに悪化させたため、遷都から11年で(国家としての)平安京の建設は中止された[1]
『類聚三代格』巻二十、天長五(828)年十二月十六日付太政官符によれば、同年(平安京建設の中止から18年後)時点で、京中の町数は「五百八十余町」であり、想定される町数(左京五六八町、右京五六八町、計一一三六町)の半分強であることから、京全体の半分程度しか開発されていなかったことがうかがえる。

発掘調査でも、左京南東部(七条大路以南、西洞院大路以東)では平安時代前期には街路がなく、平安時代中期以降に街路が設けられたことが判明している。
また、右京南西部(右京八条四坊・九条三坊・九条四坊)では平安時代の遺構や遺物が発見されておらず、開発が行われなかった可能性が高いと考えられており、この付近では九条大路も敷設されなかったことが指摘されている。[2]
街路の管理・清掃
平安京の街路は、当初は国家(左京職・右京職)が管理を行っていたが、次第に国家が管理を怠るようになったため、朱雀大路を除き、街路に面する家や役所が清掃などの管理を行うようになった。[3]
これは、朱雀大路だけが国家が管理する特別な意味を持った街路であるということに加えて、街路は「公界(くがい)」(共用の場)と考えられていたことによるという。[3]
巷所
垣[築地(ついじ)/築垣(ついがき)]・犬行(いぬばしり)・側溝などの都市施設は左京職・右京職の管理によって維持されていたが、賀茂祭などの祭礼の際に臨時に、後には恒常的に桟敷の敷地となり、また、左京職・右京職の衰退伴って次第に無主の空地と化して自由な私的占有が行われ、小屋や畑がつくられるようになった。[4]
このように、大路の築垣(築地)が崩されて大路・小路の階層的な秩序がなくなり、大路や小路の一部を水田や畑、宅地とするところが出てきて、宅地化・耕地化した街路は「巷所」と呼ばれるようになった。[4]

永久三(1115)年の「東寺権上座定俊申状写」によれば、針小路は平安時代後期の同年時点で既に道路の耕作地化(巷所化)が始まっていた[5]ようであり、これは巷所に関する初見史料とされている。[3]
平安時代後期には朱雀大路の七条大路以南[6]や東寺周辺で巷所が見られるようになり、鎌倉時代以降には左京の八条大路以南[7]などで巷所化が進んだ。
右京の衰退と右京の街路
慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記』の記述から、一般的には平安時代中期以降右京は衰退したと考えられているが、確かに右京東部が西宮の荒廃などによって衰退し、耕作地や空閑地が目立つようになった[8]のは事実のようであるし、発掘調査によって、右京の南北路(野寺小路・道祖大路など)の河川化した[8][9]のをはじめ、右京の街路の多くが平安時代中期以降に道路としての機能を喪失したことも判明している。

しかし、右京は湿潤な地勢であり、当初から町の形成は左京に比べて緩慢であったようで[10]、先述の右京南西部のように開発すらされなかった可能性が高い地域もあり、右京自体が衰退したというのは不適切なのかもしれない。
右京では平安時代中期以降にも中規模以下の邸宅は少なくなく、大規模邸宅も現象はしたものの複数確認されていること[11]ことや、一部の街路は後世まで存続していること[12][13]、また、右京西部では平安時代中期以降荘園開発が盛んに行われていた[8]ことが判明しており、これらのことにも注目する必要がある。

平安時代後期には、宅地の多くが耕作地となったものの、二条大路以北には居住空間も残り、それ以外でも二条大路・四条大路・七条大路などの幹線道路沿いには都市空間が存在していたようである。[14]
左京の市街の拡大と上京・下京
右京が衰退する一方で、左京では平安時代中期以降、東京極大路以東にも邸宅や寺院が建設されるようになり、市街は東京極大路を越えて東方向に拡大した。[11]
平安時代後期には、鴨川の東側の白河が発展し、鴨川をはさんで市街が連続するようになった。[14]
平安時代末期~鎌倉時代には左京の一条大路以北にも邸宅が相次いで建設され、市街は一条大路を越えて北方向にも拡大した。[15]

左京の市街が拡大した結果、左京の市街を上下に二分する地理的概念が生まれた。
『池亭記』の記述から、平安時代中期頃には、四条坊門小路付近を境にして北側を「上辺(かみのわたり)」、南側を「下辺(しものわたり)」と呼ぶようになったようである。
南北朝時代~室町時代には、二条大路を境にして、内裏や幕府などの政治的中心が置かれ、富裕層が集まる「上京」、四条大路を中心とした民衆が集う商業地域「下京」に分けられるようになった。[16]
保元・平治の乱と二度の大火
平安時代末期、武士の時代の幕開けともいわれる2つの政変が起こった。
保元元(1156)年に起こった保元の乱では、戦場は鴨川の河原や鴨川の東側の白河であったが、平治元(1160)年に起こった平治の乱では、京内でも戦闘が行われた。

また、2つの大火災も発生した。
『玉葉』安元三(1177)年四月二十八日条によれば、同日に樋口小路と富小路との交差点付近から出火し、東は富小路、西は朱雀大路の西、北は大内裏、南は六条大路までの範囲(京の約3分の1)が延焼した。
これを「安元の大火」または「太郎焼亡」と呼ぶ。

『玉葉』治承二(1178)年三月二十四日条によれば、同日に七条大路と高倉小路との交差点の西から出火し、この大路沿いに朱雀大路までが延焼した。
これを「治承の大火」または「次郎焼亡」と呼ぶ。
中世
平安時代中期以降、平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)が律令制の崩壊も相まって衰退すると、それに代わって町小路と各東西路との交差点(二条町・三条町・六角町・錦小路町・四条町・七条町など)が商工業の中心として発展した。[17]
高橋康夫氏によれば、平安時代中期には「町」は市を意味する言葉として広く用いられたが、12世紀後半になると町(市の開かれる場)が街区(東西市あるいは左衛門町などの厨町)から道(町小路)へと推移しており、道が生活空間の中核になったことを意味するという。[18]

町小路は、朱雀大路に代わって中世のメインストリートのような存在となり、一筋東の室町小路・二筋東の烏丸小路と合わせて商工業街を形成した。[19]
こうした商工業街には、街路を占拠して営業する座(巷所の一種)が出現するようになり、康永二(1343)年の『不動院仙恵所領紛失状』によれば、四条町の行縢(むかばき/旅や狩りなどの際に足を覆った布や革)座の屋形は柱間が十間の長屋であり、「嶋屋」という屋号もあったようである。[20]

発掘調査の結果から、二条大路・七条大路・東洞院大路などで宅地が次第に街路に張り出していったことが判明しているように、道路も狭められて生活空間に創りかえられていき(これも巷所の一種)[3]、街路の両側に近隣感が醸成されて「町(ちょう)」という地縁組織が生まれた[21]

左京南部では、八条大路と東洞院大路との交差点の北西角にあった八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡[22]を中心に八条院町が成立しし、鎌倉時代から室町時代にかけて、東西はおおよそ東洞院大路~西洞院大路、南北はおおよそ八条坊門小路~八条大路に様々な職能を持った人々が集住した。[23][24]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が大路・小路(主に交差点、京外を含む)に[25]篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置し、その数は『太平記』によれば48箇所にのぼったという。

右京の街路は、一部を除いて街路としての機能を喪失していたとみられるが、南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)に右京の街路名が登場しており[26]、土地の位置を示す座標としてはこの頃まで使用されていたようである。
南北朝の争乱・応仁の乱と戦国時代
元弘三(1333)年、後醍醐天皇を中心とする勢力が鎌倉幕府を滅ぼした元弘の乱とそれに続く南北朝の争乱では、一条大路・二条大路・大宮大路・朱雀大路・東寺周辺など京内でも戦闘が行われた。
南朝方による京への侵攻は4度にわたって行われたが、いずれも短期間京を占領した後に北朝方に撃退され、正平十六/康安元(1361)年を最後に京へ攻め込むことはなくなった。

戦乱が続いたことから、南北朝時代には、町々に防御のための釘貫(釘抜/くぎぬき)と呼ばれる木戸門が設けられるようになった。[27]

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、乱の序盤に一条大路をはじめ、主に上京が戦場となり、兵火による延焼も受け、二条大路以北を中心に広範囲が焼失した。[28]
西軍の山名宗全(やまなそうぜん)の軍勢によって、下町の町々が放火されるなど、戦火は下京にも及んだ。[29]
文明元(1469)年以降は洛中での戦闘は少なくなるが、文明六(1474)年、和睦交渉が細川政元(ほそかわまさもと/東軍)と山名政豊(やまなまさとよ/西軍)との単独講和という結果に終わると、乱は再燃し、再び洛中で戦闘が発生した。[30]

乱によって市街の多くの街路が荒廃し、東は鴨川の河原から北は近衛大路付近まで荒野となり、人家がない状況となったという。[31]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興はなされたものの、天文五(1536)年に起こった天文法華の乱によって、下京の市街の全域と上京の市街の約3分の1が焼失した。[32]
戦乱を経て市街は縮小し、上京(概ね土御門大路以北、油小路以東)と下京(東西は概ね高倉小路~油小路、南北は概ね二条大路~五条大路)の2つに分かれ、その間は田園地帯となり、室町小路だけが2つの市街をつなぐ街路として機能していたようである。[33][34]

戦国時代の上京・下京の市街は、全体を惣構(そうがまえ)と呼ばれる堀と土塀で囲まれており、また、町々の両端となった各交差点には先述の釘貫と呼ばれた木戸門があったようであり[35]、戦国時代の京都の景観を描いたとされる『日吉山王祇園祭礼図屏風』にその様子が描かれている。
町衆たちは団結を強め、町(ちょう)が発展して16世紀中頃には町組(ちょうぐみ/町衆たちの結成した自治組織)が成立した[36]

『親俊日記』天文八(1539)年十月九日条に「室町通」とあるのが「通り」の初見とされており[37]、『上杉本洛中洛外図屏風』にも「東洞院とをり」「烏丸とをり」などと書かれており、「大路」「小路」から「通り」に変わったのは戦国時代とみられている。
豊臣秀吉による都市改造
天正十八(1590)年、豊臣秀吉による都市改造が行われ[21]、2つに分かれていた市街も再び1つにつながった。
荒廃していた街路の再開発と併せて、既存の街路と街路の間に新たな街路(御幸町通・富小路通・堺町通など)が開かれ、洛中に散在していた寺院を東京極大路沿いに集めて「寺町通」とするなど、大規模な都市改造であった。[21]
「寺町通」をはじめ、この時に呼び名が変わった街路も多い。

都市改造は、押小路通以南の寺町通~高倉通と堀川通以西が対象となったが、高倉通~堀川通は祇園会(祇園祭)の鉾町であり、固い結束力が秀吉に例外を認めさせたため、対象とならなかったといわれている。[21]
また、豊臣秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれ、御土居の外は洛外とされ、10箇所設けられた出入り口を除いては、御土居の内と外を自由に行き来できなくなった。[38][39]

これに先立つ天正十五(1587)・十七年(1589)の洛中検地は、町人の宅地の規模を一筆ごとに測量、確定し、町ごとに列挙したものであるが、自ずから町々の規模が決定されることになり、さらにその結果として洛中の通りの道幅をも定めることになったのではないかと考えられている。[40]
江戸時代
江戸時代に入ると、御土居に出入り口が次々と開かれ、その数は40箇所ほどになった。[41]
高橋康夫氏によれば、寛永十六(1637)年の『洛中絵図』に記された道幅は、おそらく先述の洛中検地によって固定されることになったものと考えられ、これは、平安京条坊制に基づく大路・小路の幅員が都市支配者によって否定されたこと、ある意味で明確に平安京の都市理念が否定されたことを示しているという。[40]

市街は概ね七条通以北、大宮通以東に広がり、東西路の多くが大宮通付近を西端としていたが、一条通(大将軍通/一条街道)・妙心寺道・旧二条通・三条通・四条通・松原通・七条通などは、右京部分でも道路として存続していた。

南北路では、東洞院通(竹田街道)・油小路通・大宮通・千本通・御前通などが、九条通(場所によっては街路跡)を経てさらに南まで延びていた。
御土居の外側でも、四条通と中の橋通(現在の佐井西通)との交差点(西院村)[42]や七条通と千本通との交差点(朱雀村)[43][44]などは集落の中心となっていた。

元禄三(1690)年には、京中の通りの道幅が狭く、町並みもよくなかったことから、火事などに備えて道幅を広げることと町並み直しの令が出されている。[45]

江戸時代後期には、2つの大火災が発生した。
宝永五(1708)年三月八日、姉小路と油小路との交差点を下がった地点から出火し、東は鴨川西岸、西は油小路、北は今出川通、南は錦小路通までの範囲が焼失した。[46]
これを「宝永の大火」と呼ぶ。

天明八(1788)年一月三十日、団栗辻子(どんぐりのずし/現在の団栗橋付近)から出火し、東は鴨川の東、西は千本通、北は鞍馬口通、南は七条通までの範囲(京都市街の大半)が焼失した。[47]
これを「天明の大火」と呼び、度重なる大火を経験した京都でも史上最大規模の火災であった。

幕末には、元治元(1864)年に起こった禁門の変の兵火により、風下となった下京の市街の大半(東は寺町通、西は東堀川通、北は丸太町通、南は七条通までの範囲)が焼失した。[48]
明治時代以降
明治十(1877)年の京都駅開業により、烏丸通が駅前通りとなった。
明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業により、丸太町通(千本通以東)・四条通(大宮通以東)・七条通(大宮通以東)・烏丸通(今出川通~七条通)・大宮通(四条通~七条通)・千本通(今出川通~三条通)などが拡幅された。[49]

大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、丸太町通(千本通~西大路通)・四条通(大宮通~西大路通)・七条通(大宮通~西大路通)・塩小路通(河原町通~西洞院通)・九条通(東大路通~西大路通)などが拡幅され、西大路通(北大路通~九条通)が新たに建設された。[49]
昭和三(1928)年の昭和天皇の即位大礼に際しては、烏丸通(丸太町通~塩小路通)・丸太町通(河原町通~烏丸通)などの道路舗装が行われ、京都における道路舗装の実質的に最初の例となった。[49]

第二次世界大戦中には、防空法に基づき、空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯や消防道路を設けるための建物強制疎開(防火地帯や消防道路の計画にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われた。
京都では、御池通・三条通・高辻通・五条通・六条通・八条通・堀川通・壬生通などで建物強制疎開が行われ、多くの人々が強制的に立ち退きを命じられて家を失い、高辻通の家具屋街や堀川京極などの商店街、五条通の扇子製造業など伝統的生業も失われた。[50]

建物強制疎開が行われた通りは戦後、疎開跡地を利用して拡幅され[50]、御池通・五条通・堀川通は幹線街路として重要な役割を果たしている。
御池通はケヤキとプラタナスの街路樹が植えられ、広い歩道が設けられて、京都のシンボルロードとなっている。

[1] 桓武天皇の御前で藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が平安京建設と東北の蝦夷(えみし)討伐の中止を建議し、反対する菅野真道(すがののまみち)と激しい議論を行った末、天皇が平安京建設と蝦夷討伐の中止を宣言した(徳政相論)。 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、64~65頁

[2] 古代学協会ほか編、同上、173頁

[3] 高橋康夫『海の「京都」―日本琉球都市史研究―』 京都大学学術出版会、2015年、20~22・256~257頁

[4] 高橋、同上、36頁

[5] 『平安遺文』1818号

[6] 『平安遺文』3653号ほか

[7] 『東寺百合文書』の函/3/5/ほか

[8] 古代学協会ほか編、前掲書、176~184頁

[9] 平安時代中期以降に進行した西堀川の機能低下に対応して排水機能を分散させた結果であると考えられている。 古代交通研究会編『日本古代道路事典』 2004年、434頁

[10] 古代学協会ほか編、同上、74頁

[11] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、11~17頁

[12] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京二条四坊十五町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2005-13 2006年

[13] 堀内明博・梅川光隆「右京二条四坊」『昭和57年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1984年

[14] 山田、前掲書、30~31頁

[15] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、96~106頁

[16] 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、3頁

[17] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、526頁

[18] 高橋、前掲書(海の「京都」)、258~259・306~308頁

[19] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[20] 高橋、前掲書(海の「京都」)、22~24頁

[21] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、20頁

[22] 古代学協会ほか編、前掲書、181頁

[23] 『東寺百合文書』な函/263/

[24] 『東寺百合文書』へ函/21/

[25] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[26] 『東寺百合文書』ヱ函/92/8/ ほか

[27] 『園太暦』観応二(1351)年一月十四日条・文和二(1353)年六月二十五日条

[28] 『応仁記』巻第二ほか

[29] 京都市編『京都の歴史3』 学芸書林、1968年、339頁

[30] 京都市編、同上、348頁

[31] 『宣胤卿記』文明十二(1480)年二月二日条

[32] 『後鑑』天文五(1536)年七月二十七日条

[33] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[34] 河内将芳『戦国京都の大路小路』 戎光祥出版、2017年、44~48頁

[35] 河内将芳『絵画史料が語る祇園祭 戦国期祇園祭礼の様相』 淡交社、2015年、24~28頁

[36] 高橋、前掲書(海の「京都」)、260頁

[37] 高橋、同上、291~293頁

[38] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[39] 中村武生『御土居堀ものがたり』 京都新聞出版センター、2005年、39~42頁

[40] 高橋、前掲書(海の「京都」)、267~268頁

[41] 中村、前掲書、69~70頁

[42] 小沢嘉三『西院の歴史』 西院の歴史編集委員会、1983年、310頁

[43] 『都名所図会』「朱雀権現堂・為義塚」の挿絵

[44] 『山城名跡巡行志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1976年、415頁)

[45] 『京都御役所向大概覚書』上巻 清文堂出版、1973年、357~358頁

[46] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、457~459頁

[47] 京都市編、同上、462~466頁

[48] 京都市編、同上、553~555頁

[49] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁

[50] 建設局小史編さん委員会編、同上、34~41頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」