南から数えて2番目の大路。
発掘調査(後述)によって、左京東部では八条大路は側溝を掘って区画されているだけであり、側溝そのものもまっすぐに造られてはいなかったことが判明した
[2]が、右京部分では小礫で舗装がなされていた場所もあったようである
[3]。
『宇治拾遺物語』巻十三によれば、この大路と西京極大路の交差点付近には畑が広がり、その中にあばら屋が建っていたという。
平安時代後期にも、右京部分に藤原忠能(ふじわらのただよし/平安時代後期の公家)の邸宅(西大宮大路との交差点の北西角)や行慶(ぎょうけい/白河天皇の皇子・僧)の邸宅(道祖大路との交差点の北東角)などがあったようである。
[1][4]
平安時代末期、左京のこの大路沿いには平清盛の西八条第(にしはちじょうてい/大宮大路との交差点の北西角)をはじめとする平家の邸宅や八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所(東洞院大路との交差点の北西角)などがあり
[4]、都の中心から離れているにもかかわらず、都の中心的大路であった。
『平家物語』に登場する邸宅も多い。
祇王(ぎおう)・祇女(ぎにょ)・仏(ほとけ)の悲話も西八条第が舞台であるし、清盛が鹿ヶ谷の陰謀の処断を行ったのも西八条第である。
また、八条院御所や藤原顕長(ふじわらのあきなが)邸(堀川小路との交差点の北東角)
[4]は一時期後白河上皇(法皇)が身を寄せたところである。
『平治物語』『愚管抄』によれば、平治の乱後、後白河上皇は仁和寺を出て藤原顕長邸に身を寄せ、桟敷からこの大路を行き交う人を眺めたり、民衆を呼び寄せたりして心を慰めていたが、二条天皇親政派の藤原経宗(ふじわらのつねむね)・惟方(これかた)によって、そこに板を打ち付けられ、視界をさえぎられてしまったという。
また、『平家物語』によれば、奈良を焼き打ちにした平重衡(たいらのしげひら)は、六条大路を引き回された後、八条堀川堂(堀川小路との交差点の南東角)
[4]に移されたという。
『玉葉』寿永二(1183)年七月二十五日条によれば、平家は都落ちする際に西八条第をはじめとする邸宅を焼き払ったという。
しかし、平家一門と別行動を取った平頼盛(たいらのよりもり/清盛の弟)は、元暦元(1184)年に鎌倉から戻った後、再び室町小路との交差点の北西角にあった邸宅に居住したようである。
[5]
八条院は当時最大の荘園領主であり、御所には「御倉町」(荘園からの献上品を貯蔵する倉)や八条院領が付属しており、周辺には八条院庁(八条院の政務を司る機関)の別当(最高責任者)でもあった頼盛の邸宅をはじめ、八条院に奉仕する公家・武家の邸宅が並び、東洞院大路との交差点周辺は八条院の都市といえるほどの空間となっていた。
[6]
八条院は建暦元(1211)年に死去したが、その後、八条院御所跡を中心に八条院町が成立した。
[7]
八条大路ではおおよそ東洞院大路から油小路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[7][8]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
発掘調査
[9](後述)でも、西洞院大路との交差点の西側で鎌倉時代の鋳造作業に関連する用具類が出土している。
西八条第の跡地には、源実朝の妻であった西八条禅尼(にしのはちじょうのぜんに)が居住し、寛喜三(1231)年に自邸の寝殿を仏堂として「遍照心院(へんじょうしんいん)」と名付けた。
[10]
遍照心院は東は大宮大路、西は朱雀大路、北は塩小路、南は八条大路という広大な範囲を占めた。
[10]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[11]際、この大路には万里小路・町小路・櫛笥小路との各交差点など、複数箇所に篝屋が設置された
[12][13]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[14][15]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[16]
発掘調査
[17][18]によれば、東洞院大路との交差点の北西及び油小路との交差点の南東が、概ね平安時代(末期)~鎌倉時代に居住地域として利用されていたことが判明したが、室町時代頃に衰退して耕作地となったようである。
『太平記』によれば、足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際、六波羅探題の軍勢がこの大路にも展開したという。
また、南北朝時代の争乱では足利尊氏(後醍醐天皇の名「尊治」から一字を賜って改名)が東寺に陣を構えたことから、東寺や東寺周辺がしばしば戦場となった。
南北朝時代以降は巷所化(道路の耕作地化)が進み、応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、同年時点でこの大路の堀川小路~大宮大路(南側)が東寺領巷所となっていたようである。
[19]
応永十三(1406)年には、大宮大路との交差点付近で、大宮大路以東は八条大路の北半分、大宮大路以東は大路の南半分が巷所化され
[20]、道路が狭められて支障をきたしたため、遍照心院が東寺に対して六、七尺(約1.8m~約2.1m)を道路に戻すように訴え、東寺はじぶしぶこれを受け入れたという記録が残っている。
[21]
室町時代以降、この大路の南側(南限は針小路、東限は櫛笥小路、西限は壬生大路)には款冬(やまぶき)町が成立した。
[22]
款冬町は都市的発展から少し遅れたものの
[23]、款冬町は東寺の管下の町として発展し、農民の家屋と僧侶の庵室・家屋が混在していたという。
[22][24]
款冬町は近世を通じて僧坊町のような機能を有しながら東寺による管理が維持されたようである。
[24]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路の左京部分を荒廃させ
[25]、左京のおおよそ八条大路以南は「九条村」という田園集落となった。
延徳三(1491)年には、この大路の堀川小路~猪熊(猪隈)小路では南北両側から大路の巷所化が進み、道幅が一丈五尺(約4.5m)に狭められていたようである。
[26][27]
元亀四(1573)年、織田信長の軍勢が足利義昭(あしかがよしあき/室町幕府第十五代将軍)を討伐すべく京に攻め上ってきたため、ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)は京のキリシタンの助言によって九条村に逃れ、一時滞在した。
[28]
昭和五十九(1984)年度の左京九条二坊十三町の発掘調査では、九条大路と油小路との交差点の北東でポルトガル語で記されたキリシタン関係とみられる荷札が出土しており
[29]、これらを考え合わせると、この付近にキリシタンが多数居住する集落があった可能性が高いと考えられる。
フロイスの元亀四(1573)年五月二十七日付書簡には、織田信長によって焼かれた村の1つとして「西九条」の名が挙げられている
[30]が、東九条は焼かれなかったということであろうか。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉が「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)を八条通の北に築いたため、油小路通~千本通の東を除いて完全に洛外の通りとなってしまった。
[31][32]
当初は八条通には出入り口は設けられなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってから千本通の東側に御土居の出入り口が開かれたようである。
江戸時代には、大宮通の東西や千本通付近に民家がある他は野道であったようである。
[33][34]
『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では、東は鴨川西岸から西は千本通の東(御土居の出入り口)まで八条通が描かれている
[35]が、江戸時代の京都町奉行所の手引書『京都御役所向大概覚書』には、公儀橋(幕府直轄の橋)として「八条通千本西之石橋」が挙げられており
[36]、少なくとも千本通の西まで通りが存在したと考えられる。
大宮通以西は、「八条村」という農村となっていた。
俳諧書『毛吹草』には、八条の名産として「八条の浅瓜」が挙げられている。
[37]
元禄十三(1700)年~宝永五(1708)年にはこの通り沿いに銭座があり、元禄十四(1701)年の『京師大絵図』によれば、場所はこの通りの北側、現在の河原町通以東、須原通以西であったようである。
文久二(1862)年に描かれた『京都指掌図 文久改正』では、八条通が油小路から御土居の出入り口を経てさらに西まで続いていたことがうかがえる。
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、八条通が千本通を超えて佐井通付近に至っており、小道や水路として明治時代まで存続していたことが分かる。
遍照心院大通寺は幕末~明治時代に衰退し、明治四十五(1912)年に九条大宮交差点の南(現在地)に移転した。
[38]
第二次世界大戦中の昭和二十(1945)年には、八条通の高倉通~堀川(現在の西堀川通)で建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ、戦後、疎開跡地を利用して道幅約36mに拡幅された。
[39]
昭和三十九(1964)年には、東海道新幹線開業によって京都駅に八条口が開設され、新たな玄関口となって発展している。
平成十三(2001)年より八条通の河原町通~竹田街道の拡幅整備が進められ、平成二十(2008)年に4車線供用が開始された。