七条大路と八条大路の中間に位置する小路。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」
[1]が設けられた。
発掘調査
[2](後述)では、烏丸小路との交差点を西に入った地点で、八条坊門小路が平安時代にほぼ『延喜式』の規定どおり(路面幅7m)に造られ、平安時代後期から鎌倉時代初頭に路面幅が5m弱に狭められたものの、江戸時代まで道路として継続使用されたことが判明している。
平安時代末期、左京のこの小路沿いには平清盛の西八条第(にしはちじょうてい/大宮大路との交差点の南西角)や八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所の「御倉町」(荘園からの献上品を貯蔵する倉/東洞院大路との交差点の南西角)があり、発展した。
[3]
『玉葉』寿永二(1183)年七月二十五日条によれば、平家は都落ちする際に西八条第をはじめとする邸宅を焼き払ったという。
八条院は建暦元(1211)年に死去したが、その後、八条院御所跡を中心に八条院町が成立した。
[4]
八条坊門小路ではおおよそ東洞院大路から油小路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[4][5]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[6][7]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[8]
延元元/建武三(1336)年、足利尊氏と新田義貞の戦いではこの小路の猪熊(猪隈)小路~大宮大路が激戦地となったようである。
[9]
発掘調査
[10][11](後述)によって、室町小路との交差点を西へ入った地点や油小路との交差点を東へ入った地点で鋳造関係の遺物が多数出土している。
これらの地点では、室町時代後半以降は急速に耕作地化が進んだようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ
[12]、乱後は下京の市街の外に位置したため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
[13]
この通りの油小路通~大宮通は慶長年間(1596~1615)に再開発された。
[12]
江戸時代には、東は油小路通の東から西は大宮通までで、「三哲通(さんてつどおり)」と呼ばれた。
[12][14]
三哲通の名は、大宮通との交差点を東へ入った場所に三哲(算哲)と呼ばれた渋川春海(しぶかわしゅんかい)の邸宅があったことに由来するようである。
[14]
ただし、『龍岸寺文書』によれば、三哲通の名は龍岸寺開山(寺を開創した僧)の三哲和尚もちなむといい、京町鑑の説は誤りとする。
[15]
『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では、位置関係の整合性が取れていない部分もあるものの、東洞院通と西洞院通の間、七条通と八条通の間に塩小路通、八条坊門通、梅小路通の3本の通りが描かれており、明治時代~大正時代に執筆された『京都坊目誌』でも「東は東洞院通」
[12]と記述されていることから、東洞院通~西洞院通には通りが存在した可能性がある。
この通り沿いは田園地帯となっていたが、明治十(1877)年の京都駅開業で京都駅前の通りとなり、発展した。
ただし、京都駅前を含む塩小路通の堀川通以東は北にずれているため、平安京の八条坊門小路にあたる通りとはいえない。
大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、塩小路通の河原町通~西洞院通が京都市区改正街路14号線として拡幅された。
[16]
現在は「塩小路」を名乗る通りであるが、平安京の塩小路にあたるのは一筋北の木津屋橋通である。