平安時代、大宮大路との交差点の西側には東寺(とうじ)、西大宮大路との交差点の東側には西寺(さいじ)という平安京を守護する官立寺院が置かれた。
[2][3]
東寺は現在もほぼ同じ場所に存在しているが、西寺は天福元(1233)年の火災によって塔が焼失
[4]して以降衰退し、廃絶したと考えられているが、『二水記』大永七(1527)年十月二十七日条に西寺に陣を敷いたとの記述があることから、東寺の末寺となって戦国時代まで存続したとの見方
[5]もある。
西寺跡の発掘調査
[6][7][8]では、平安時代前期の西寺造営当初から針小路沿いの九条一坊九・十・十五町・十六町が西寺の寺域であったことが確定し、寺域内では針小路が敷設されなかったことが判明している。
永久三(1115)年の「東寺権上座定俊申状写」によれば、針小路は平安時代後期の同年時点で既に道路の耕作地化(巷所化)が始まっていた
[9]ようであり、これは巷所に関する初見史料とされている。
[10]
平安時代末期、この小路沿いには平重衡(たいらのしげひら)の邸(壬生大路との交差点の北西角)などがあった。
[2]
発掘調査
[11][12](後述)によって、左京東部では平安時代後期から末期にかけて居住地域化が進み、室町時代から戦国時代にかけて衰退して耕作地となったことが明らかになった。
建保二(1214)年には、針小路の南側、朱雀大路の東側の巷所が売買された記録が残っている。
[13]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[14]際、この小路には大宮大路との交差点に篝屋が設置された。
[15]
『太平記』によれば、足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際、六波羅探題の軍勢がこの小路にも展開したようである。
また、南北朝時代の争乱では足利尊氏(後醍醐天皇の名「尊治」から一字を賜って改名)が東寺に陣を構えたことから、東寺や東寺周辺がしばしば戦場となった。
南北朝時代に道路の巷所化がさらに進行し、朱雀大路との交差点付近には「針小路朱雀巷所」という東寺領巷所があったようである。
[16]
応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」では、堀川小路~大宮大路の周辺の道路に東寺領巷所が点在したことが確認できる。
[17]
平成九(1997)年度の左京九条三坊の発掘調査
[18]では、西洞院大路との交差点を西へ入った地点で、鎌倉時代以降は調査地一帯が耕作地となった後も、針小路は路面・側溝ともに近代初頭まで位置を踏襲し、農道としての使用が継続されたことが判明した。
室町時代以降、この小路の左京部分は農村の様相を呈したが、この小路の北側(北限は八条大路、東限は櫛笥小路、西限は壬生大路)には款冬(やまぶき)町が成立した。
[19]
款冬町は都市的発展から少し遅れたものの
[20]、東寺の管下の町として発展し、農民の家屋と僧侶の庵室・家屋が混在していたという。
[19][21]
款冬町は近世を通じて僧坊町のような機能を有しながら東寺による管理が維持されたようである。
[21]
針小路通は、江戸時代には西は油小路通から東は千本通までで、堀川の西には農家があったようである。
[22]
ただし、『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では、油小路以東(御土居の外側)も高瀬川西岸まで針小路通が続いていることから、御土居の外側(東側)でも通りが残っていたとみられる。
千本通付近から西は、近代の市街地拡大に伴って開通した。
[23]
現在は途切れ途切れの道となっているが、小路名は残っている。