東から数えて2番目の大路。
平安時代から鎌倉時代にかけて、この大路沿いは邸宅街の様相を呈しており
[6]、大路名が示すように里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)や上皇の御所も多く営まれた。
この大路に沿って、東洞院川が一条大路から南流しており、大炊御門大路との交差点で向きを変えて西流していたようである。
[7]
『平家物語』によれば寿永三(1184)年、一の谷の戦いで斬られた平家の者達の首がこの大路を引き回されたという。
また、『百錬抄』元暦二(1185)年五月二十三日条によれば、壇ノ浦の戦いで敗れた平宗盛(たいらのむねもり)・清宗(きよむね)親子の首が獄門にかけられる際、後白河法皇は三条大路との交差点で見物した。
平安時代末期には、八条大路との交差点の北西角に八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所があった。
[8]
八条院は当時最大の荘園領主であり、御所には「御倉町」(荘園からの献上品を貯蔵する倉)や八条院領が付属しており、周辺には八条院に奉仕する公家・武家の邸宅が並び、八条大路との交差点周辺は八条院の都市といえるほどの空間となっていた。
[9]
『明月記』元久二(1205)年閏七月二十六日条・『吾妻鏡』同日条によれば、同日に六角小路との交差点付近にあった平賀朝雅(ひらがともまさ/鎌倉幕府の御家人)の邸宅が鎌倉幕府に命じられた御家人たちによって襲撃され、炎上した。
八条院は建暦元(1211)年に死去したが、その後、八条院御所跡を中心に八条院町が成立した。
[10]
東洞院大路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[10][11]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[12]際、この大路には5箇所(一条大路・春日小路・三条大路・高辻小路・五条大路との各交差点)に篝屋が設置された
[13]。
これはこの大路が京東部において重要視されたことを示している。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[14][15]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[16]
元弘(1331)年に光厳天皇(こうごんてんのう)が土御門東洞院殿(東洞院大路との交差点の東側)で即位して以降、次第に内裏は土御門東洞院殿に定着していき、現在の京都御所の原型となった。
[17]
『太平記』によれば興国三/康永元(1342)年九月、「婆娑羅(ばさら)大名」として知られた土岐頼遠(ときよりとお)が樋口小路との交差点で出会った光厳上皇の牛車に狼藉行為を行うという事件が起こり、これが原因で土岐頼遠は六条河原で斬首された。
室町時代には綾小路~五条大路が商業地として栄え
[6]、応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から塩小路にかけて16軒の酒屋があった
[18]ようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路を荒廃させたが、道路のみは通じており
[19]、北部では内裏が生き残ったものの、内裏も荒廃していたようである。
[20]
この大路は明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、土御門大路以北が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね一条大路の北~正親町小路の南が上京の市街を形成した。
[21]
また、二条大路~五条大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、六角小路・四条大路との交差点付近や綾小路~五条大路が下京の市街を形成した。
[21]
ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)の記した『日本史』には、足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)の二条御所から内裏に通じる街路が「非常に幅広く長い街路」で、「両側には新鮮な緑色の、同じ形の樹木が一面に植えられていた」という記述がある。
[22]
位置関係から東洞院大路のことであると考えられるが、この大路が応仁の乱後においても内裏付近では一定の道幅を維持し、街路樹が植えられていたことがうかがえ、非常に興味深い。
東洞院通は天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発されたが、狭い通りとなってしまった。
[19]
発掘調査
[23](後述)によっても、東洞院大路は中世を通じて平安時代の位置を踏襲し続け、安土桃山時代に移設されたことが判明しており、豊臣秀吉の都市改造に伴う改修や若干の移設がなされたものとみられている。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって八条通との交差点を上がった地点(梅小路通の北)に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた
[24]が、この通り(南部)に当初から出入り口が設けられたのかどうか定かではない。
江戸時代には、この通り沿いに茶柄杓・鎧象眼・金銀粉屋・箔問屋・唐紙屋・三味線屋・絵はけ・銅道具など多くの商家が軒を連ねた。
[25]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産としてムク練・茶柄杓・黒柿枉鍋(くろかきまげなべ)・蒔絵下地印籠・板唐紙(はんからかみ)が挙げられている。
[26]
北は内裏の北西角(武者小路通の一筋南)まで達していた
[27]が、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した
[28]ことに伴い、丸太町通以北の通りが消滅した。
元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代には八条通との交差点を上がった地点(梅小路通の北)に「竹田口」(御土居の出入り口)が開かれていたようであり、竹田口以南は竹田村を経て伏見へ至る「竹田街道」に通じていた。
おおよそ七条通以南は「東塩小路村」という洛内農村となり、東洞院通沿いに民家が集まっていたようである。
[29]
東洞院通は竹田街道へ連なる幹線道路として注目され、物資を運ぶ牛車が通る道路でもあった
[30]ことから、江戸時代中期の享保年間(1716~1736)には交通渋滞がピークに達した
[31]。
京都町奉行所は対策を協議した結果、この通りを北行き一方通行とし、日本で最も早い一方通行規制がこの通りから始まったという。
[31]
明治二十八(1895)年から昭和四十五(1970)年にかけて、竹田街道を経由して塩小路高倉~中書島に京都電気鉄道(後に京都市電)伏見線が走った。
これが日本初の路面電車である。
また、明治二十八(1895)年から昭和四(1929)年にかけて、塩小路東洞院~七条東洞院にも京都電気鉄道東洞院線が走ったが、こちらは河原町通経由へのルート変更のため、短命に終わっている。
大路名(通り名)は鎌倉時代以降、別称等はほとんどみられず、「東洞院」の名が連綿と受け継がれてきた通りであるが、現在は京都駅付近を除いて一歩通行の狭い通りであり、裏通りの雰囲気である。