西洞院大路と大宮大路の中間に位置する小路。
川幅4丈の堀川の両側に2丈(約6m)ずつの小路であった。
川と道路を合わせると幅員は24mとなるため、大路と間違えられることもあったようである。
[2]
平安時代、この小路沿いの北部には冷泉院(れいぜいいん/二条大路との交差点の北西角)・堀河院(ほりかわいん/二条大路との交差点の南東角)などの邸宅、土御門大路から春日小路にかけて検非違使庁(けびいしちょう/京の警察や治安維持を担った役所、近衛大路との交差点の北西角)や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。
[3]
南部では、北小路との交差点付近に平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)が置かれ、九条坊門小路との交差点の南東角には綜芸種智院(しゅげいしゅちいん/空海が創設した庶民のための教育施設)があった。
[3]
中御門大路との交差点の南東角には高陽院(かやのいん)があり、治安元(1021)年に藤原頼通(藤原道長の子、平安時代中期の摂政・関白)が敷地を広げて四町規模の大規模な邸宅を造営した。
[3]
その後、後冷泉天皇以降五代の天皇の里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった
[3]が、『中右記』寛治六(1092)年六月七日条によれば、高陽院にはしばしば虹の市が立った
[4]という。
堀川が材木の運送に利用された(後述)ため、五条堀川(五条大路との交差点)は材木の集散地として材木市が立ち、多くの材木商人が集住していたようである。
[5]
祇園社(八坂神社)の『社家条々記録』によれば、元慶三(879)年に材木商人たちを神人(じにん/祇園社に奉仕する社人)に任じたという。
[6]
『平治物語』巻二には、平治元(1160)年に起こった平治の乱の折、二条堀川(二条大路との交差点)には材木が満ちており、源氏の家臣鎌田政家(かまたまさいえ)に馬を射られた平重盛(たいらのしげもり)が材木の上にはね落とされる場面が登場する。
また、『一遍上人絵伝』には、五条堀川の材木市や堀川の材木曳航の様子が描かれている。
鎌倉時代初期の建久年間(1190~1198)に一条大路以北に道路が延長されたという。
[7]
平安時代末期には、東市はかなり寂れていたとみられる
[8]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
高陽院は、後鳥羽上皇の御所として元久二(1205)年に造営された時期には、二町規模(油小路以東)に縮小した。
[3]
後鳥羽院政の拠点となったが、承久の乱後の貞応二(1223)年に放火により焼亡し
[9]、以後は再建されなかったようである。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[10]際、この小路には四条大路との交差点に篝屋が設置された
[11]。
貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。
[12]
この小路の南部では、南北朝時代以降に巷所化(道路の耕作地化)が進み、応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、同年時点でこの大路の八条大路~九条大路(西側)が交差点部分など一部を除いて東寺領巷所となっていたようである。
[13]
『師守記』貞治元(1362)年十一月二十二日条の記述から、祇園社の堀川神人たちは南北朝時代にも材木商売を行っていたことがうかがえる。
また、『祇園社記』の「材木屋在所」(室町時代の応永年間頃のものとされる
[14])には、六条坊門小路以北、大宮大路以東に点在する34名の材木商人の所在地が記載されている
[15]。
長禄三(1459)年、祇園社の堀川神人たちは材木座を結成し、貯木場(木材を集積・貯蔵する場所)を独占するようになった。
[16]
室町時代以降は、堀川が洛中を東西に分ける線となった。
[17]
室町時代には、この小路沿いに酒屋が点在し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、土御門大路から七条大路にかけて14軒の酒屋があったようである。
[18]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、乱の序盤の「一条大宮の戦い」でこの小路の北部が延焼する
[19]など、近隣が戦場となって兵火による延焼を受けることもあり、この小路は荒廃したとみられ、乱後は上京・下京の市街の外に位置した
[20]ため、この小路沿いは本國寺付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。
堀川通の五条通以南は、天文十六(1542)年の本國寺の再建
[21]や天正十九(1591)年の西本願寺(現在の正式名称は本願寺)の建立によって消滅した
[7]が、慶長八(1603)年、二条通との交差点の西側に二条城が築城された
[22]ことにより、二条城前の通りとなって発展した。
江戸時代には、北は寺之内通から始まり、今出川通との交差点を下がった地点から南では、堀川をはさんで東西にそれぞれ東堀川通と西堀川通があった。
[23]
東堀川通は南は万寿寺通までで、材木屋・桶屋・鍛冶屋・古道具などの商家があった。
[24]
伊藤仁斎(いとうじんさい/江戸時代前期の儒学者)は東堀川通との下立売通との交差点を上がった場所で生まれ、36歳で同地に学塾「古義塾」(こぎじゅく/古義堂[こぎどう])を開いた。
[25]
西堀川通は南は本國寺門前(松原通の南)までで、鍛冶屋・むしろ・毛皮・あら物屋・戸障子・戸棚屋・古本屋・古道具屋などの商家が軒を連ねた。
[24]
俳諧書『毛吹草』には、東西の堀川通の名産として紺形・水屋具・戸障子細工が挙げられている。
[26]
西本願寺以南では、下魚棚通から塩小路通まで堀川通があった。
[7]
二条城に面する部分の西堀川通は、「二条城外廻り」として周辺とは一線を画しており
[27]、祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の神輿渡御の行列がここを通っていた
[28]ものの、自由な往来はできなかったとみられる。
また、この部分の西堀川通には、堀川沿いには柵が設置されていたようである。
[27]
『歴博F本洛中洛外図屏風』には、二条城外廻り(西堀川通)を進む後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条城行幸(ぎょうこう/天皇の外出)の行列と、堀川の上に構えられた桟敷から行列を見物する人々の様子が描かれている。
二条堀川土橋(現在の二条橋)は山城国の各村や京都周辺の寺社などへの里程の起点として用いられた。
[29]
江戸時代後期には、材木屋に加えて染物業者がこの通り沿いに同業者町を形成するようになった。
[5]
明治三十四(1901)年から明治三十五(1902)年にかけて、京都電気鉄道堀川線堀川中立売~四条堀川~西四条(後に四条西洞院と改称)が開業し、中立売通~四条通に電車が走った。
大正七(1918)年には京都市に買収され、中立売線・北野線として開業した区間も含めて京都市電堀川線となったが、昭和三十六(1961)年に全線廃止された。
西堀川通の中立売通~丸太町通には、明治時代中頃に上京区で最初の商店街といわれる堀川京極商店街が形成され、大正中期頃からはアーケードの前身にあたる鉄骨アーチのテントと私費舗装を備えるようになった。
[30]
椹木町通との交差点付近にあった上の店(かみのたな/京都最大の魚鳥菜果市場飲食店)などの2つの市場や小売店、カフェ・喫茶店・飲食店、映画館など、中立売から丸太町にかけて両側に250店が軒を連ね、市内有数の繁華街・歓楽街として繁栄した。
[30]
第二次世界大戦中の昭和二十(1945)年には、堀川通で建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ
[31]、堀川京極商店街も建物疎開の対象となってわずか5日の期限で解体され、消滅した。
[30]
戦後、堀川京極商店街の疎開跡の荒れ地に、全国最初の店舗付住宅の商店街として堀川商店街が再建された。
[30]
また、戦後の市街地整備計画により、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われ、五条通以南では一筋東の醒ヶ井通を、花屋町通以南では二筋東の西中筋通をそれぞれ取り込んで幅約50mの堀川通が誕生した。
[31]
御池通から五条通までの堀川が暗渠となった(後述)ことにより、御池通以南で東西の堀川通が一体化した。
現在、京都市街の南北路で最も広い通りで、五条通以南は国道1号線となっており、幹線道路として重要な役割を果たしている。
七条通以南は西堀川通の方が平安京の堀川小路に近い。
堀川は市中の運河としての機能を持ち、材木の運送などに利用されたが、氾濫することもたびたびあった。
[32][33]
延暦十八(799)年、桓武天皇が建設中の平安京を巡幸した際、堀川を開削する囚人たちの苦労を哀れんで恩赦の詔を出した。
[34]
『続日本後紀』によれば、天長十(833)年、左右両京の京戸(きょうこ/京に本籍を持つ都市住民)に東西の堀川杭料として檜柱1万5千株を賦課した。
貞観八(866)年には、旱魃(かんばつ)で飢えた庶民が堀川の鮎を捕まえて食べたとの記録がある。
[35]
天文十六(1542)年の本國寺の再建や天正十九(1591)年の西本願寺の建立によって、五条通以南の堀川の流域にも異動があったようである。
[7]
寛永十四(1637)年に描かれた『洛中絵図』によれば、川幅は5間(1間は約1.8m)、両側の道幅は3~4間とかなり広かったことが分かる。
『堀河之水』には、「川の水におりたちて。春は若菜を湔き。夏は瓜茄子やうの物。冬は人参葱などをあらふ男。あさなゆうなにたゆる時なし」とあり、この川で野菜類を洗っていたようである。
江戸時代の堀川には、上流から下流にかけて冷泉(椹木町冷泉)・錦小路・四条・高辻・醒ヶ井の5つの井堰があり、これらの井堰から分水して洛中洛外農村の農業用水となっていたが、関係する各農村の間で用水をめぐる争論も絶えなかったようである。
[5]
昭和六十二(1987)年度の左京六条二坊の発掘調査
[36]では、中世・近世の堀川が予想以上に東に位置していたことが判明し、水量も比較的豊富な状態で使用されていたようである。
江戸時代後期以降、六条通以北では再度河道を東側に広げ、その部分の川岸を船着き場などの施設として利用していたものと考えられている。
明治時代以降は、川沿いの染物業者が水洗作業に使用した水を堀川に流し、川は藍色や紅色に染まったという。
[37]
第二次世界大戦後、五条通以北では依然として堀川が開渠となっていたが、大雨の際に氾濫を繰り返したことから、御池通から五条通まで暗渠となった。
堀川は昭和三十年代に水源を失ったが、平成二十一(2009)年、京都市の堀川水辺環境整備事業によって琵琶湖疏水の分流が通水され、水流が復活した。
川沿いは親水公園として整備されている。