平安京の北端に位置する大路であるが、『山槐記』長寛二(1164)年六月二十七日条には、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二丁(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、この大路が一条大路と呼ばれるようになったとの記述がある。
この記述に対して、藤本孝一氏はこの「昔」というのが初期の平安京とは限らないとの見解を述べており
[6]、山田邦和氏は「昔」は初期の長岡京であると述べているが
[7]、瀧浪貞子氏が述べるように「昔」を初期の平安京だと仮定した場合
[8]、平安時代のある段階で宮城が拡張したことになり、拡張前は大宮大路~西大宮大路の区間にも道路が存在したことになる。
『三代実録』元慶八(884)年八月二十八日条には、一条大路の北側に溝と橋が存在したことを示す記述がある。
発掘調査
[9](後述)によっても、道祖大路との交差点を東に入った地点の平安京北限推定位置で幅約12mの溝が検出され、当初は平安京北限の堀や運河のような機能を持ち、後に一条大路の側溝として本来の規模に改修された可能性が指摘されている。
また、別の発掘調査
[10]によって、左京北辺四坊八町の東側(京外)では平安時代前期の段階で既に一条大路の延長部分(一条大路末)が敷設されていたことが判明している。
『御堂関白記』長保六(1004)年六月五日条には、鴨川に一条橋が架かっていた旨の記述があるが、一条大路の延長線上にあった橋なのかどうかは定かではない。
平安時代、この大路沿い(南側)には公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。
[5][11]
大宮大路~西大宮大路は大内裏の北側に面しており、この大路に面して、東から達智門(たっちもん)、偉鑒門(いかんもん)
[12]、安嘉門(あんかもん)という3つの門があった。
[13]
『小右記』長和五(1016)年一月十三日条に「是れ祭場なり」とあるように、平安時代から鎌倉時代にかけて、この大路には宴や祭りの行列を見るための桟敷がよく設けられ、烏丸小路~西洞院大路は桟敷を設けるのに適した地であったようである。
最も華やかだったのは賀茂の祭(葵祭)の日で、『源氏物語』の有名な「車争い」(行列の見物場所争い)の舞台はこの大路である。
桟敷や見物席が設けられる場所は、東洞院大路、烏丸小路、町小路、大宮大路との各交差点に次第に固定化されていったようである。
[14]
『兵範記』仁平元(1151)年三月二十七日条によれば、西大宮大路のと交差点を西へ入ったところに北野神社(北野天満宮)伏拜(ふしおがみ)所があり、伏拜せずには一条大路は自由に通行できなかったという。
この大路の北側(京外)には、西洞院大路から堀川小路にかけて左近馬場(さこんのばば/左近衛府[さこんえふ]に属する馬場)、西大宮大路から西堀川小路にかけて右近馬場(うこんのばば/右近衛府[うこんえふ]に属する馬場)があったが、寛弘元(1004)年、行円(ぎょうえん/革聖[かわひじり])が西洞院大路との交差点の北西に革堂(こうどう)
[15]を創建したため、左近馬場の敷地に変動があったと推定されている。
[16]
公家の邸宅も平安時代中期から少数存在したが、平安時代末期~鎌倉時代には、西洞院大路~東洞院大路に一条町口第、一条室町第、今出川(今出河)第という邸宅が建設されたのをはじめ、市街が一条大路を超えて北方向に拡大した。
[16]
嘉禎三(1237)年には、九条道家(くじょうみちいえ/鎌倉時代前期の摂政・関白)が一条室町第の一条大路に面した築垣を壊して、その上に七間一面の檜皮葺の桟敷を構築したという。
[17]
市街の拡大によって「平安京最北端の大路」という位置づけは消滅したが、その後も公家社会では洛中と洛外の机上の境界とされることが多く、戦国時代に入ってもそれは変化しなかった。
[18]
単に洛中と洛外の境界にとどまらず、魔界や霊界との境界とも考えられたことから、『付喪神記』や『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』にみられる、妖怪たちが一条大路を行進したという百鬼夜行伝説が生まれた。
『今昔物語集』巻二十八では、この大路の路面状況が悪かったことが語られている。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[19]際、この大路には5箇所(東京極大路、東洞院大路、町小路、西洞院大路、大宮大路との各交差点)に篝屋が設置された。
[20][21][22]
これはこの大路が鎌倉時代にも重要視されたことを示している。
『太平記』によれば、元弘の乱において足利高氏らが六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻め落とす際や南北朝時代の争乱ではしばしば戦場や軍勢の通路となった。
室町時代には、東京極大路から大宮大路にかけて9軒の酒屋があったようである。
[23]
文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱に際して、この大路上に東西両陣を隔てる堀が掘られ、烏丸小路から西洞院大路の西を流れていた小川にかけては「御構(おんかまえ)」と呼ばれる東軍の防御陣地の南端となった。
[24]
堀は幅2丈(約6m)、深さは1丈(約3m)あったという。
[25]
乱の序盤では、大宮大路・猪熊[猪隈]小路との交差点を中心とした地域が激戦地となって広範囲の邸宅や寺院などが焼失し(後述)
[26]、最大の激戦ともいわれる相国寺の戦いにおいて、この大路の高倉小路~室町小路を中心に西軍の軍勢が展開するなど、たびたび戦場や軍勢の通路となった。
[27]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続き、この大路を荒廃させた。
[28]
昭和五十五(1980)年度の左京北辺三坊五町の発掘調査
[29]では、烏丸小路との交差点を西に入った地点で一条大路北側の戦国時代の濠跡と考えられる遺構が検出されている。
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされたと考えられ、この大路は油小路以東が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね東洞院大路~油小路が上京の市街を形成した。
[30]
一条大路以南、正親町小路以北、東洞院大路と室町小路の間には「禁裏六丁町(きんりろくちょうちょう)」と呼ばれる6つの町が形成され、公家や公家に仕える侍、僧侶、武家、商工業者が居住した。
[31]
ルイス・フロイス(ポルトガル人宣教師)の記した『日本史』には、内裏から百万遍に通じる街路が「広く真直ぐでまったく平坦な街路」で、機織りや扇子をはじめとする多種多様な職人の店があったという記述がある。
[32]
位置関係から一条大路のことであると考えられるが、この大路が応仁の乱後においても上京の市街では一定の道幅を維持し、賑わいを見せていたことがうかがえ、非常に興味深い。
一条通は天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発されたが、この時には狭い道路となっていた。
[28]
烏丸通以東の通りは、天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって消滅した。
[28]
天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって紙屋川の西側に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた
[33]が、この通りには出入り口は設けられたなかったと考えられる。
同年、秀吉による都市改造の一環として禁裏六丁町に大名屋敷が建設されると、禁裏六丁町は瓦解し、北は土御門大路、南は近衛大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた都市集落「新在家(しんざいけ)」が六丁町として繁栄したようである。
[34]
江戸時代の一条通は東は烏丸通から西は七本松通の西までで、京北部での商工業の中心であり、古手屋・ぬり物屋・小道具・書物屋・からうす棹・鐘木・扇屋・鍛冶・島織屋・植木屋などの多くの商家が軒を連ねた。
[35]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として薬玉・造花・似紺染(にごんぞめ)が挙げられている。
[36]
なお、御前通(右近馬場通)以西にも一条通(大将軍通/一条街道)があり、御室や愛宕へ通じていた。
[37][38]
元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってから御前通以西の一条通にも御土居の出入り口が開かれたようである。
堀川に架かる橋は「一条戻橋(いちじょうもどりばし)」と呼ばれ、三善清行(みよしきよゆき)が死出の旅から戻ってきたという伝説をはじめ、数々の伝説がある。
戻橋については、江戸時代初期には中立売通の橋を戻橋と呼び、元和六(1690)年の徳川和子の入内に際して「萬年橋」と改称したという記録
[39]や、元は土御門大路の橋を戻橋と呼んだという記録
[40]もある。
一条戻橋についてはこちら→
現在の一条通は、平安京の北端の大路の面影はなく、七本松通以東では町家が点在する閑静な狭い通りである。
一条通の下ノ森通~西大路通にある大将軍商店街は、百鬼夜行伝説をもとに「妖怪ストリート」としてまちおこしを展開しているユニークな商店街である。
一条大路と室町小路との交差点。
室町時代以降「一条札の辻(いちじょうふだのつじ)」と呼ばれ、高札や町触れが掲げられる場所であった。
[41]
『教言卿記』応永十三(1406)年七月二十六日条によれば、一条室町に風呂があり、公家たちが貸切で入ることがあったようである。
天正十(1852)年の本能寺の変後、明智光秀は一条室町の辻に京の町人を集めて洛中の地子銭(じしせん/領主権を主張していた公家や寺社に納めた地代)の免除を伝えたという。
[38]
貞享三(1686)年と元禄九(1696)年の『京大絵図』には、「一条札辻より方々への道之程」と記されており、江戸時代中期までは里程の起点としても用いられたようである。
一条大路と大宮大路との交差点。
『太平記』巻第十七によれば、延元元/建武三(1336)年六月に南朝と北朝の合戦が一条大宮であり、名和長年(なわながとし/後醍醐天皇の倒幕運動に加わった武将)が戦死した。
文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱では、乱の序盤でたびたび戦場となった。
一条大宮の北東角には西軍の細川勝久(ほそかわかつひさ)の邸宅があったため、応仁元(1467)年五月には一条大宮・一条猪熊(猪熊[猪隈]小路との交差点)を中心とした地域で2日間に渡って激戦が繰り広げられた(「一条大宮の戦い」)。
[27]
戦火によって細川勝久邸をはじめ、一条大路と堀川小路との交差点の北東にあった村雲大休寺(むらくもだいきゅうじ)
[42]、革堂
[15]、百万遍(ひゃくまんべん)
[43]などが焼失し、南は二条大路まで延焼したという。
[26]
翌六月にも一条大宮付近で東軍の赤松政則(あかまつまさのり)勢と西軍の山名教之(やまなのりゆき)勢との戦闘が発生した。
[44]