『京都坊目誌』によれば、小路名はこの小路沿いに住んでいた近衛基実(このえもとざね/平安時代末期の関白)が「猪隈殿」と呼ばれたことに由来するという[5]が、平安時代中期に書かれた『小右記』の永延ニ(988)年十月二十九日条に「猪熊殿」の名がみえ、平安時代中期以前からの呼び名であった可能性もある。
猪隈とは、長岡京の時代に存在した公的な建物であるという。[6]

平成三(1991)年度の左京三条一・二坊他の発掘調査[7]では、現在の押小路通との交差点付近で、猪隈小路が平安時代前期には敷設されていなかったことが判明した。

平安時代、この小路沿いの一条大路から三条大路にかけて織部司(おりべのつかさ)・左衛門府(さえもんふ)・検非違使庁(けびいしちょう)・修理職(しゅりしき)・木工寮(もくりょう)などの役所や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)があった。[8]
別称の「靱負小路」は、衛門府の別称「靱負」に由来すると考えられる。

北小路との交差点付近には平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)が置かれ[8]、この小路も市の繁栄に伴って繁栄したと考えられる。
七条大路との交差点には東市の市門があった[9]ため、「市南門小路」[2]や「南市門小路」[3]という市門にちなんだ別称があったようである。

承平年間(931~938)には、市門の東側に空也(くうや)が市堂を建立した。[8][10]
東市は、律令制の崩壊に伴って次第に衰退していき、平安時代末期にはかなり寂れていたとみられる[9]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。

鎌倉時代後期の弘安七(1284)年、一遍(いっぺん/時宗の宗祖)が市堂を訪ね、時宗布教の拠点として「市屋道場」とした。[11]
『一遍上人絵伝』には、市屋道場での踊念仏の様子が描かれている。

応永九(1402)年の「侍所頭人土岐頼益遵行状」によれば、信濃小路との交差点周辺に信濃小路猪熊散所があったようである。[12][13]
『東寺百合文書』(東寺に伝わる中世の古文書)では、鎌倉時代以降の「猪隈」の表記例は1例[14]のみであり、基本的に「猪熊」の表記が用いられていることから、「猪熊」の表記が定着したと考えられる。

室町時代にはこの小路沿いに酒屋が点在し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、正親町小路から唐橋(九条坊門)小路にかけて25軒の酒屋があったようである。[15]
『庭訓往来』には、京都名産の1つとして「猪熊の紺」が挙げられており、堀川と大宮川にはさまれたこの小路沿いは染物が発達していたと考えられている。[11]

文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱では、一条大宮(一条大路と大宮大路との交差点)の北東角に西軍の細川勝久(ほそかわかつひさ)の邸宅があったため、応仁元(1467)年五月には一条大宮や一条猪隈(一条大路と猪隈小路との交差点)を中心とした地域で2日間に渡って激戦が繰り広げられ(「一条大宮の戦い」)、戦火によって南は二条大路まで延焼したという。[16][17]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続いてこの小路を荒廃させ[5]、乱後は上京・下京の両市街の外に位置した[18]ため、この小路沿いは田園地帯が広がっていたとみられる。

天正十五(1587)年にほぼ完成した[19]という豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい/後に豊臣秀次の邸宅となった)は、西側をこの小路に面しており、鷹司小路(下長者町通)との交差点に鉄門(くろがねもん/黒鉄門)があったと推定されている。[20]

天正十八(1590)年、猪熊通は豊臣秀吉によって再開発され、一条通以北にも通りが延長された。[5]
慶長八(1603)年の二条城築城[21]により、竹屋町通~押小路通の通りが消滅した。
二条城の北側に隣接して、この通りをはさんで西側に沿い京都所司代(きょうとしょしだい/京都の治安維持を担った役所)の上屋敷(所司代の政庁ある中心部分)、東側に中屋敷が置かれた。[22]

江戸時代、この通り沿いには木履・包丁・小刀鍛冶・薬などの職人が住んでいた。[23]
六角通との交差点には聚楽第(じゅらくてい/安土桃山時代にあった豊臣秀吉・秀次の邸宅)から移築された円柱の門があったが、天明八(1788)年正月の大火で焼失したという。[24]

江戸時代の地誌『京羽二重』によれば、南は松原通までであったとされている[23]が、『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』を見ると、七条通~唐橋通(九条坊門小路にあたる)にも通りが存在したことが分かる。
実際に、昭和六十(1985)年度の立会調査[25][26]では、猪熊通の七条通~塩小路通及び下魚棚通との交差点付近で平安時代から現代まで連綿と続く猪隈小路路面が検出されている。

明治二十六(1893)年に松原通から花屋町通まで延伸されたようである。[5]
現在の猪熊通は、住宅地の中を走る閑静な狭い通りである。

[1] 『中古京師内外地図』

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、409頁)

[3] 『拾芥抄』所収「東京図」

[4] 『日本紀略』寛平八(896)年十月十三日条

[5] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、246頁)

[6] 『類聚国史』延暦十一(792)年一月九日条

[7] 上村憲章・小森俊寛「平安京左京三条一・二坊・神泉苑跡・史跡旧二条離宮」『平成3年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1995年

[8] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、180~181・359~372頁

[9] 『拾遺抄註』(『羣書類従』第16輯(和歌部)、続群書類従完成会、1960年、252頁)

[10] 『山州名跡志』(『新修京都叢書』第16巻、臨川書店、1969年、250頁)

[11] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[12] 『東寺百合文書』ト函/78/1/

[13] 東寺周辺には、「散所法師」(さんじょほうし/東寺の支配下にあって寺中の掃除や警衛など種々の雑役に従う人々)がおり、彼ら及び彼らの居所を「散所」(居所は「散所在所」とも)といった。

[14] 『東寺百合文書』ヰ函/13/1/

[15] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[16] 『応仁記』巻第二

[17] 『尋尊大僧正記』応仁元(1467)年五月二十九日条

[18] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[19] 『兼見卿記』天正十五(1587)年九月十三日条

[20] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、236~239頁

[21] 京都市編『史料京都の歴史』第9巻(中京区) 平凡社、1985年、264頁

[22] 大上直樹・高橋みずほ・谷直樹「中井家絵図より見た京都所司代の上屋敷、中屋敷、下屋敷の建築について」『大阪市立大学生活科学部紀要』第49巻、大阪市立大学生活科学部、2001年

[23] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、19頁)

[24] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第20巻、臨川書店、1976年、46頁)

[25] 百瀬正恒・吉村正親「平安京左京八条二坊1」『昭和60年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1988年

[26] 百瀬正恒「平安京左京八条二坊2」『昭和60年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1988年