小路名は現在の通り名と違い、「からすまる」と読む。
平安時代には、公家、特に藤原家の邸宅街の様相を呈していた。
[3]
この小路に沿って、子代川(烏丸川)が一条大路から南流していた。
[4]
大炊御門大路との交差点で東洞院川が合流し、冷泉小路で向きを変えて西流して、その先は室町川となっていたようである。
[4]
昭和五十八(1983)年度~昭和六十(1985)年度の発掘調査
[5][6][7][8]では、烏丸小路南端部(少なくとも九条坊門小路以南)は平安時代後期に平安時代前期~中期には道路がなく、平安時代後期に敷設されたことが判明した。
天延二(974)年、祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の神輿渡御(みこしとぎょ)
[9]が初めて行われ、その際に、高辻小路との交差点の北東角の土地が祇園社(八坂神社)の御旅所の敷地として寄付され、大政所(おおまんどころ)御旅所と呼ぶようになった。
[10]
土御門大路との交差点の南西角にあった土御門烏丸第は、永久五(1117)年から久安四(1148)年まで約30年間里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった。
[11]
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、この小路の四条大路~六条大路には市井の民家が集中した。
[12]
南部では、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)
[3]を中心に八条院町が成立した。
[13]
烏丸小路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[13][14]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[15]際、この小路には四条大路との交差点に篝屋が設置された
[16]。
『勘仲記』弘安七(1284)年閏四月十七日条によれば、洪水により、烏丸小路との交差点の北西角にあった近衛殿(このえどの/摂関家の近衛家の邸宅)の烏丸小路に面した棟門が流出したり、築地塀が転倒したのをはじめ、周辺の多くの民家が被害を受けたという。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[17][18]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[19]
室町時代には、この小路は商業地として発展して室町小路・町小路とともに最も繁華な小路となり、三条大路~五条大路には酒屋をはじめとする各種の商工業者が軒を連ねた。
[12]
応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、土御門大路から楊梅小路にかけて20軒の酒屋があったようである。
[20]
『庭訓往来』には、京都名産の1つとして「烏丸の烏帽子」が挙げられている。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、この小路沿いに西軍の主要人物であった斯波義廉(しばよしかど)の邸宅「武衛殿(ぶえいどの/武衛陣)」(中御門大路との交差点の北西角)
[21]があったことから、乱の序盤に武衛殿付近が複数回にわたって戦場となり
[22]、兵火による延焼も受けた。
乱によってこの小路は四条大路以南が荒廃し、七条大路以南は農家が集落(東塩小路村)を形成した。
[23]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は土御門大路以北が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね一条大路の北~正親町小路の南が上京の市街を形成した。
[24]
一条大路以南、正親町小路以北、東洞院大路と室町小路の間には「禁裏六丁町(きんりろくちょうちょう)」と呼ばれる6つの町が形成され、公家や公家に仕える侍、僧侶、武家、商工業者が居住した。
[25]
この小路の二条大路~五条大路は下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね姉小路~高辻小路が下京の市街を形成した。
[24]
戦国時代には、三条大路との交差点の北西に米場(米の卸し市場)があったようであり、『上杉本洛中洛外図屏風』にも描かれている。
[26]
永禄二(1559)年から永禄三(1560)年にかけて、斯波氏の武衛殿(中御門大路との交差点の北西角)を再興して足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)の邸宅(二条御所)が築かれ、再びこの小路沿いに足利将軍の御所が置かれた。
[21][27]
永禄八(1565)年の永禄の変によって義輝は殺害され、二条御所も焼失して付近も戦場となった
[28]が、永禄十二(1569)年に織田信長が跡地を拡張して室町幕府第十五代将軍の足利義昭のために邸宅(旧二条城)を造営した。
[29]
旧二条城の範囲は北は近衛大路、南は春日小路の北、東は東洞院大路、西は町小路の東と推定されている
[30]が、元亀四(1573)年に義昭が信長に追放された後、旧二条城は破却された
[29]。
元亀四(1573)年、北は土御門大路、南は近衛大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた地域に、織田信長によって「新在家(しんざいけ)」という都市集落が建設された。
新在家は惣構で囲まれていたという。
[31]
天正四(1576)年、織田信長は二条大路との交差点の北西角にあった二条家(摂関家)の邸宅を接収し、それを改造して新しい邸宅(二条新第/二条御新造)とした。
[32]
発掘調査
[33]によって、この小路の二条新第に面する部分には、路面中央部に深さ3.9m以上の堀が築かれていたことが判明している。
二条新第は天正七(1579)年に誠仁親王(さねひとしんのう/正親町天皇の皇子)に献上されたが、天正十(1582)年の本能寺の変の折、織田信忠(信長の嫡男)はここで明智軍を迎え撃って戦死した。
[32]
天正十八(1590)年、烏丸通は豊臣秀吉によって再開発された。
[23]
天正十九(1591)年、豊臣秀吉による都市改造の一環として禁裏六丁町に大名屋敷が建設されると、禁裏六丁町は瓦解し、新在家が六丁町として繁栄したようである。
[34]
祇園社の大政所御旅所は、長らく場所の変動がなく、戦国時代の京都の景観を描いたとされる『歴博甲本洛中洛外図屏風』『上杉本洛中洛外図屏風』にも描かれている。
烏丸小路に面して築地塀と朱の鳥居を構えており、周囲には町家も描かれ、下京の市街にあったことがうかがえるが、天正十九(1591)年に四条通と寺町通との交差点の東(現在地)に移転した。
[10][35][36]
慶長七(1602)年には東本願寺(現在の正式名称は真宗本廟)が現在地に創建され
[37]、七条通まで再開発が進んだ。
江戸時代の烏丸通は、北は上立売通の北から一条通を経て南は七条通までで、長文庫・挟箱・蒔絵屋・古手屋・絹布屋・馬借・包屋・袈裟屋・経師屋・色紙・短冊・手本紙・張貫人形・竹の皮・竹材木など多くの商家が軒を連ねた。
[38]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として内裏粽(ちまき)・麩炙(ふやき)・鹿茸(ろくじょう)・金賀留多(きんかるた)・歌賀留多が挙げられている。
[39]
宝永五(1708)年に発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が烏丸通の東側まで拡大した。
[40]
この時の内裏と公家町を合わせた領域が、ほぼ現在の京都御苑となった。
狭い通りとなっていたが、明治十(1877)年の京都停車場(後の京都駅)開業に伴って七条通から塩小路通まで延伸され
[23]、明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業によって丸太町通~塩小路通が拡幅され
[41]、京都のメインストリートとなった。
明治四十五(1912)年に京都市電烏丸線七条駅前(後に京都駅前に改称)~烏丸丸太町が開業し、烏丸通に電車が走った。
大正二(1913)年、今出川通~丸太町通が拡幅されて市電烏丸線は烏丸今出川まで延伸された。
[23]
大正天皇・昭和天皇の即位大礼では、いずれもこの通りを行進した。
昭和三(1928)年の昭和天皇の即位大礼に際しては、烏丸通の丸太町通~塩小路通の道路舗装が行われた。
[41]
市電烏丸線は最終的には烏丸車庫前(北大路通との交差点)まで延長されたが、昭和四十九(1974)から昭和五十二(1977)年にかけて全線廃止され、昭和五十六(1981)年に開業した京都市営地下鉄烏丸線がその役割を引き継いでいる。
烏丸通は五条通以北が国道367号、五条通~塩小路通が国道24号となっており、幹線道路として重要な役割を果たしている。