中御門大路と大炊御門大路の中間に位置する小路。
右京では「木蘭小路」とも呼ばれ、『本朝世紀』久安五(1149)年八月四日条には、松尾行幸(ぎょうこう/天皇の外出)の巡検についての記述の中に「木蘭」の名がみえる。
昭和五十七(1982)年度の右京二条三坊の発掘調査[4]では、宇多小路との交差点を東に入った地点で平安時代前期の春日小路路面と南側溝が北に約3mずれて検出されているが、このずれは左京部分には及んでいないようである。

平安時代~鎌倉時代、左京部分のこの小路沿いは邸宅街の様相を呈していた。[5]
平安時代後期に発展した白河では、鴨川をはさんで道はつながっていなかったものの、この小路の延長線上にあたる街路が「春日小路末」と呼ばれたようであり、保元の乱で崇徳上皇方の本拠地となった白河北殿(しらかわきたどの)は、『保元物語』によればこの小路の延長部分(春日小路末)にあったという。

『山槐記』治承三(1179)年二月二十三日条には、春日木辻の塔に礼拝した旨の記述があり、治承三(1179)年の時点で木辻大路との交差点が存続していたと推測される。
平成十七(2005)年度の右京二条四坊十五町跡の発掘調査[6]では、西京極大路との交差点付近で鎌倉時代の春日小路の路面と南側溝が検出されている。

こうしたことから、右京の衰退とともに右京の街路が衰退していく中、この小路の右京部分は鎌倉時代においても道路として存続していたものと思われる。
発掘調査(後述)[7]では、山小路との交差点を東へ入った地点で平安時代中期~近世初期の春日小路北側溝が検出され、春日小路の北側に接する場所は室町時代まで宅地として存続したことが判明した。

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[8]際、この小路(延長部分を含む)には3箇所(東朱雀大路[京外]、東洞院大路、大宮大路との各交差点)に篝屋が設置された。[9]

室町時代には、万里小路から朱雀大路にかけて8軒の酒屋があった[10]ようであり、万里小路との交差点の南東角には室町幕府の管領、畠山家の邸宅があった[11]
文正二(1467)年一月、畠山政長(はたけやままさなが)が管領を罷免されたことに怒り、この邸宅に火を放ち、上御霊社(かみごりょうしゃ/上御霊神社)に布陣して応仁の乱が幕を開けた。[12]
乱は文明九(1477)年まで続き、近隣が戦場となったため、兵火による延焼も受けて[13]、大宮大路以東のこの小路は荒廃した。[14]

乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この小路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。[15]
左京部分の通りは天正十八(1590)年に豊臣秀吉によって再開発され[14]、通り沿いに丸太の材木屋が多かったことから、「丸太町通」と呼ばれるようになった。[16]

江戸時代には、東は寺町通から西は大宮通の西の日暮通までで、この通り沿いに魚棚・鍛冶屋・材木屋などの商家があった。[17]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として曝木(のされき)・鷹鈴が挙げられている。[18]

宝永五(1708)年に発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した。[19]
この時の内裏と公家町を合わせた領域が、ほぼ現在の京都御苑となった。

文久三(1863)年、この通りに面した御所の堺町御門付近で会津藩を中心とした公武合体派と長州藩を中心とした尊王攘夷派が対峙し、一触即発の危機となった。[20]
元治元(1864)年七月十九日に勃発した蛤御門の変(禁門の変)では、堺町御門付近で長州勢と、会津藩や桑名藩、薩摩藩、新選組などの軍勢との戦闘があり、公家の鷹司邸に火が放たれた。[21]

丸太町通は、明治二十六(1893)年に鴨川の東の熊野神社境内を貫いて東に新道を開き、明治四十五(1912)年に道路拡築事業によって日暮通と松屋町通との間に斜めに道を通し、西は千本通まで拡幅・延伸された。[14][22]
明治四十五(1912)年に京都市電丸太町線千本丸太町~烏丸丸太町が開業し、大正ニ(1913)年に烏丸丸太町~熊野神社前(東大路通)が延伸開業した。

大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、丸太町通の千本通~西大路通が京都市区改正街路11号線として拡幅された。[22]
昭和三(1928)年の昭和天皇の即位大礼に際しては、丸太町通の河原町通~烏丸通の道路舗装が行われた。[22]
市電丸太町線は、昭和三(1928)年に西は西ノ京円町(後に円町と改称/西大路通との交差点)まで延伸されたが、昭和五十一(1976)年に全線廃止された。

丸太町通は、鴨川の東側から洛中を貫き、嵯峨野に至る幹線道路として重要な役割を果たしている。

◆ 昭和五十七(1982)年度の右京二条四坊の発掘調査[6]では、山小路との交差点を東へ入った地点で平安時代中期~近世初期の春日小路北側溝が検出された。
春日小路の北側に接する宅地内では、平安時代後期以降の建物・柵列が検出され、造り替えを経ながら室町時代まで存続していたことが判明した。
遺構が近世初期まで存続することは、右京の中でも特異な事象といえる。


[1] 上京区一二〇周年記念事業委員会編『上京区一二〇周年記念誌』 2000年、160頁

[2] 『兵範記』仁安元(1166)年十月十五日条

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 辻純一・菅田薫「右京二条三坊」『昭和57年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1984年

[5] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[6] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京二条四坊十五町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2005-13 2006年

[7] 堀内明博・梅川光隆「右京二条四坊」『昭和57年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1984年

[8] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[9] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[10] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[11] 『康富記』嘉吉二(1442)年八月二十二日条・享徳三(1454)年八月二十九日条

[12] 『応仁記』巻第一

[13] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年七月十二日条ほか

[14] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、287頁)

[15] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[16] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、261頁)

[17] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21頁)

[18] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[19] 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、197・211頁

[20] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、133頁

[21] 上京区一二〇周年記念事業委員会編、前掲書、47頁

[22] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁