平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち/猪隈小路との交差点付近)・西市(にしのいち/西靱負小路との交差点付近)の中央を通る小路。
[4]
平安時代前期は市の繁栄に伴って繁栄したと考えられるが、西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようである
[5]。
『拾遺抄』巻十・雑部下に、「一たひも南無阿弥陀佛といふ人の蓮のうへにのほらぬはなし」という空也の和歌が収められており、詞書は「市門(いちかど)にかきつけて侍りける」と書かれている。
寿永三(1184)年に書かれた『拾遺抄註』には、その詞書の注釈に、その小路の末を古くは「市町」といったが、今は「北小路」と名付けたという記述がある
[2]ので、北小路という名は平安時代末期に名付けられたものなのかもしれない。
同時期に編纂された歴史書『本朝世紀』では、七条大路の一筋北にあたるこの小路を「七条北小路」
[1]、一筋南にあたる塩小路を「七条南小路」
[6]と記載しており、この小路に関しては「七条」が省略された「北小路」の名で定着したと考えられる。
先述の注釈には、その市で昔は商いをしていたという記述もあり、東市が律令制の崩壊に伴って衰退し、平安時代末期にはかなり寂れていたことがうかがえる。
ただし、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
中世には現在の今出川通が「北小路」と呼ばれたが、平安京の北小路とは全く関係がない。
貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。
[7]
貞和三/正平二(1347)年頃には、西洞院大路との交差点付近に傾城屋(遊郭)があったという。
[8]
ちなみに、この記事では上京の北小路と区別するためか、「下北小路」と記載されている。
[8]
南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)には「北小路面堀河東」「北小路堀河西」とあり
[9]、堀川小路との交差点付近が耕作地となっていたことがうかがえる。
昭和六十(1985)年度の左京七条二坊・八条ニ坊の発掘調査
[10]では、北小路路面と両側の側溝が検出されたが、想定線より約2m南にずれていたことが判明した。
また、路面は使用頻度が非常に高く、何度も補修等が行われていたようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ
[11]、乱後は下京の市街の外に位置した
[12]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。
[11]
天正十九(1591)年、醒井通との交差点の西側に西本願寺(現在の正式名称は本願寺)が創建され
[13]、それまでの本國寺の敷地の一部が西本願寺の敷地となった。
また、慶長七(1602)年には烏丸通~新町通に東本願寺(現在の正式名称は真宗本廟)が創建され、通り沿い(高倉通以西)には東西の本願寺の寺内町が成立した。
[13]
江戸時代には、東は高瀬川の西一筋目(現在の土手町通)から東西の本願寺による分断を経て西は大宮通までの通りであった。
[14]
当初は烏丸通以東が「阿弥陀堂筋」、新町通~醒井通が「太鼓ノ番屋筋」と呼ばれていたようであるが、通り沿いの町の成立に伴って全体を「下数珠屋町通」と呼ぶように変化したようである。
[13][14][15]
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、北小路通が千本通を超えて佐井通まで続いており、小道や水路として明治時代まで存続していたことが分かる。
現在は、下数珠屋町通・北小路通ともに狭く目立たない通りである。
堀川通~大宮通は、実際には西本願寺の私有地であるが、善意により歩行者・自転車のみ通行可能となっており、通りの北側に面する西本願寺の唐門(国宝)を間近で見ることができる。