西から数えて2番目の大路。
平安時代、この大路沿いの土御門大路以北(東側)には宇多院(うだいん/宇多天皇の譲位後の御所)があった。
[3]
平安京造営時に河道の付け替えが行われ、中御門大路以北では宇多川の流路になっていたと考えられている。
[4]
早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から六条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
[3]
『長秋記』永久元(1113)年八月十一日条には、同日の松尾行幸(ぎょうこう/天皇の外出)でこの大路の中御門大路~二条大路が行幸路として使われた旨の記述があり、『山槐記』永暦二(1161)年八月二十日条には、同日の平野行幸でこの大路の正親町小路以北が行幸路として使われた旨の記述がある。
また、『山槐記』治承三(1179)年二月二十三日条には、春日木辻の塔に礼拝した旨の記述があり、治承三(1179)年の時点で春日小路との交差点が存続していたと推測される。
こうしたことから、右京の衰退とともに右京の道路が衰退していく中、この大路の二条大路以北の大部分は平安時代後期になっても道路として存続していたのではないかと思われる。
ちなみに、春日木辻(春日小路との交差点)の南東角は『拾芥抄』所収「西京図」によれば月輪寺(がつりんじ)の所領であり、月輪寺の所領内に塔があったのではないかと考えられる。
この大路の北部では、鎌倉時代後期には既に北野社(北野天満宮)の木辻保(神人[じにん/北野社に奉仕する社人]の集住地域)が形成されていたことが判明しており、薪料や柴などを納めていたようである。
[5]
平成九(1997)年度の右京一条三坊十三町の発掘調査
[6]では、中御門大路との交差点を上がった地点で平安時代前期~中期の木辻大路の東西両側溝が検出されている。
調査地点付近では、平安時代前期を限りに宅地は廃絶し、室町時代中期以降に耕作地として開墾されたようである。
江戸時代には、木辻大路路面部分が水路として利用されていたことが判明した。
南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)に「七条面木辻」とあり
[7]、木辻大路が当該時期に当該地点で街路として機能していたかどうかは不明であるが、土地の位置を示す座標としてはこの頃まで使用されていたようである。
江戸時代には、下立売街道(現在の妙心寺道)
[8]との交差点周辺が「木辻村」と呼ばれる洛外農村となっていた
[9]が、木辻村の前身は北野社の木辻保であったとみられている。
[5]
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、木辻大路が概ね一条大路~姉小路・三条大路~四条大路・楊梅小路~七条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
木辻通は右京の南北路で平安時代と同じ名で呼ばれる数少ない通りの1つであるが、木辻通というと鹿苑寺(金閣)前を通る通り(正式名称ではなく通称)の方が知られており、平安京の木辻大路にあたる部分は目立たない。
「きつじ」という音が金売り吉次、さらには牛若丸(源義経の幼名)を連想させるためか、金売り吉次と牛若丸の伝説があり、妙心寺道との交差点周辺には牛若丸首途(かどで)の井跡や首途地蔵を本尊に持つ願王寺がある。