大宮大路と壬生大路の中間に位置する小路。
小路名の由来である櫛笥大納言の邸宅の旧地は、丹波口通との交差点を下がったところにある南谷家の櫛笥第であるという。
[1]
北小路との交差点の東側には平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)が置かれた。
[9]
天慶二(939)年、空也(くうや)が三条大路との交差点付近に極楽院を建立し、「櫛笥道場」「市中道場」などと呼ばれた。
[10]
『空也上人絵詞伝』によれば、三条櫛笥というところに紫雲が立ちのぼったので、そこに寺院を結んだという。
平安時代末期には、八条坊門小路との交差点の南側に平清盛の「西八条第(にしはちじょうてい)」があり
[11]、その中心となった邸宅は「八条坊門櫛笥亭」と呼ばれた。
[12]
『玉葉』寿永二(1183)年七月二十五日条によれば、平家は都落ちする際に西八条第をはじめとする邸宅を焼き払ったという。
官設市場であった東市は、律令制の崩壊に伴って次第に衰退していき、平安時代末期にはかなり寂れていたとみられる
[13]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
この小路も、平安時代中期以降の右京の衰退とそれに伴う朱雀大路の衰退の余波を受けたと考えられるが、平成二(1990)年度の左京六条一坊十五町の発掘調査
[14]では、六条坊門小路との交差点を上がった地点で鎌倉・室町時代の多くの柱穴が検出された。
調査地点では鎌倉時代以降も連綿と人々の営みが続いていたことが判明した。
『明月記』寛喜二(1230)年八月二十日条によれば、三条大路との交差点の南西角に藤原仲房(ふじわらのなかふさ)の邸宅があり、『とはずがたり』によれば、文永九(1272)年に六角小路との交差点付近に久我家(村上源氏嫡流の公家)の邸宅があるなど、鎌倉時代にもこの小路沿いに公家の邸宅があったようである。
「別表記」の欄に記載したとおり、『東寺百合文書』(東寺に伝わる中世の古文書)では誤表記も含むものと思われるが、この小路名の表記がバラエティーに富んでいる。
南北朝時代の興国二/暦応四(1341)年には、法華宗最初の勅願寺(天皇・上皇の発願により創建された寺院)である妙顕寺(みょうけんじ)が四条坊門小路との交差点の北東角に移転してきたが、元中四/嘉慶元(1387)年に比叡山延暦寺の衆徒によって破却され、若狭国小浜(わかさのくにおばま/現在の福井県小浜市)に避難した。
[15][16]
『薩戒記』正長元(1428)年十一月十日条によれば、同年の土一揆により極楽院が焼かれたという。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路にも被害をもたらし、極楽院は再び焼失した
[10][17]。
『晴富宿禰記』延徳四(1492)年四月二十四日条には、綾小路櫛笥(綾小路との交差点)より西に家があった旨の記述がある。
天文五(1536)年に天文法華の乱が起こった当時は、この小路沿いに本能寺(妙顕寺の跡地)・立本寺(りゅうほんじ/四条大路との交差点の南西角)という法華寺院があり
[18]、両寺院とも比叡山延暦寺の軍勢によって焼き討ちにされて堺へ避難した
[19]。
平成十八(2006)年度の左京四条一坊十二・十三町の発掘調査
[20]では、四条大路との交差点を上った地点で、櫛笥小路の中央を南北に縦断する室町時代後期の堀が検出された。
周辺が法華寺院の密集地であったことから、他宗派からの攻撃に備えるために城塞化した寺院を囲った構え(堀)の一部であった可能性が高いと考えられている。
享禄三(1530)年前後に構築され、天文五(1536)年の天文法華の乱後は構えとしての機能を終え、迅速に埋め立てられたようである。
『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』によれば、江戸時代には北は仏光寺通から南は八条通まで(高辻通~松原通で分断)の通りであったようであり、仏光寺通の南に「櫛笥通」と記載されている。
江戸時代の地誌類ではこの通りについてあまり触れられていないが、『京町鑑』には、一貫町通(いっかんまちどおり/櫛笥通の一筋東の通り)の西は中堂寺西寺町
[21]といって通りが一筋あり、南へ行けば七条通に出るという記述があり、位置関係から櫛笥通のことであると思われる。
[22]
松原通との交差点の南側は、中堂寺西寺町という町名が示すように通りの両側が寺院の密集地であり、現在もそれは変わらない。
この付近は江戸時代には「中堂寺村」とという農村になっていたが、中堂寺村には上櫛笥町・下櫛笥町という小路名由来の町名があったようである。
[22]
『京羽二重』には、八条匣(櫛笥)通の遍照心院(へんじょうしんいん)という記述があり、南部でも櫛笥通という呼び名は残っていたようである。
[23]
遍照心院大通寺(へんじょうしんいんだいつうじ)は、東は大宮大路、西は朱雀大路、南は八条大路、北は塩小路に接する広大な寺院であったが、明治時代初頭の廃仏毀釈で衰退し、明治四十四(1911)年に九条大宮交差点の南に移転した。
神泉苑通には、かつて壬生村への灌漑用水路が通りに沿って二条城の堀から四条通まで南流していたが、現在では暗渠となっている。
[1]
現在の櫛笥通は、住宅地の中を走る狭く目立たない通りであるが、東寺境内の北総門から北大門にかけては、平安時代とほぼ同じ道幅(約12m/4丈)で通りが残っており
[24]、両側の築地塀も相まって平安時代の小路の雰囲気を楽しむことができる。