平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や一条大路から春日小路もしくは大炊御門大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)、九条坊門小路との交差点の南西角に施薬院(せやくいん/貧しい病人を収容・治療する施設)があった。
[2]
小路名は、文献上「町小路」の初見が『殿暦』嘉承元(1106)年六月二十九日条である一方、「町尻小路」は『兵範記』久寿二(1154)年一月三日条を最後としており、平安時代後期から末期にかけて「町尻小路」と「町小路」とが併称され、次第に町小路に定着していったようである。
[3][4]
高橋康夫氏によれば、「町小路の呼称の成立は、おそらく口や尻の脱落、省略といった発音上の問題ではなく、「町」という言葉にふさわしい市が開かれる道という新たな都市状況を反映している」ようである。
[5]
昭和六十二(1987)年度の左京北辺三坊の発掘調査
[6]では、正親町小路との交差点を上がった地点で、町小路のほぼ中央部から東半部で平安時代中期~後期の遺物を含む水路が検出され、調査地点付近では平安時代後期に水路が埋没した後に町小路が敷設されたことが判明した。
平安時代中期以降、平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)・西市(にしのいち)が律令制の崩壊も相まって衰退すると、それに代わってこの小路と各東西路との交差点(二条町・三条町・六角町・錦小路町・四条町・七条町など)が商工業の中心として発展した。
[4]
これらの場所に集まった商工業者たちはお互いに独占的な座を結成し、三条町の鎌座・四条町の直垂座・六角町の生魚御供人・七条町の干魚座などの商工業座が生まれた。
[4]
平安時代後期以降、この小路を中心とする火災の記事が他と比べて非常に多く、この小路沿いに人家が密集していたことがうかがえる。
[4]
鎌倉時代初期には、朱雀大路に代わって中世の京のメインストリートのような存在となった。
[3]
鎌倉時代以降、四条町に商工業座が集中し、刀座・行縢座・腰座・小物座・鎧座・腹巻座・弓矢座・太刀座・刀座・綾座・錦座・馬鞍座・雲母座・水銀座・太刀屋座・袴腰座など、数多くの商工業座があったという。
[3]
康永二(1343)年の『不動院仙恵所領紛失状』によれば、四条町の行縢(むかばき/旅や狩りなどの際に足を覆った布や革)座の屋形は柱間が十間の長屋であり、「嶋屋」という屋号もあったようである。
[5]
また、『明月記』天福二(1234)年八月五日条には、七条町を中心とした地域の焼亡の記事があるが、この地域が日本の財宝を集めたかのような繁栄ぶりであったことが記されている。
南部では、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)
[2]を中心に八条院町が成立した。
[7]
町小路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[7][8]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
発掘調査
[9](後述)によって、八条大路との交差点を上がった地点では町小路の路面中央部に幅約10mの水路があり、水路の東西に幅1.1~1.8mの石敷き路面があったことが判明している。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[10]際、この小路には一条大路・八条大路との各交差点に篝屋が設置された
[11]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[12][13]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[14]
室町時代も商工業の中心として繁栄し、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、この小路沿いには一条大路から塩小路にかけて41軒の酒屋があったようであるが、この数は他の街路と比べても群を抜いている。
[15]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の四条大路以南を荒廃させた。
[16]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、土御門大路以北が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね一条大路以北が上京の市街を形成した。
[17]
また、三条坊門小路~五条大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね姉小路~高辻小路が下京の市街を形成した。
[17]
戦国時代の京都の景観を描いたとされる『上杉本洛中洛外図屏風』には、町小路を進む祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の山鉾巡行の様子が描かれている。
『歴博甲本洛中洛外図屏風』には、右隻第二扇の左下に町小路に面した木戸が描かれているが、発掘調査
[18](後述)によって、木戸の下部構造とみられる柱穴が検出されている。
四条町は、下京の町組(ちょうぐみ/町衆たちの結成した自治組織)の中心となって「四条町の辻」「鉾の辻」などと呼ばれ
[19]、室町幕府の制札が掲げられる場所でもあった。
[20]
「町小路」(町通)から「新町通」へ呼び名が変化したのは、元亀年間(1570~1573)~天正元(1573)年頃と推定されている。
[5]
江戸時代の地誌『京町鑑』には、新しい建物が次々に建っていったことにより「新町通」と呼ばれるようになった旨の記述
[21]があるが、実際に下京惣構の外側に新たに成立した町々に「新町」「新屋敷」といった名を冠するようになり、通り名にも「新」の字が付け加えられるようになったようである。
[5][22]
天正十八(1590)年、通りは豊臣秀吉によって再開発された。
[16]
蛸薬師通との交差点を下がったところに豪商・茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)の邸があり、徳川家康がしばしば訪ねて宿舎としたという。
[23]
慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。
[24]
この遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。
[24]
江戸時代の新町通は、北は御霊の辻子(現在の上御霊前通)から南は七条通までで、かざり屋・乗物屋・絵筆・唐傘・提灯・すず屋・家具屋・長崎問屋・芋屋・桐の箱屋・長持屋・素麺・あら物屋など多くの商家が軒を連ねた。
[25]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として絵筆・面・乗物・浅黄椀(あさぎわん)・折敷・塗長持・行器(ほかい)・中嶋鏡・挑燈・鞠(まり)・同沓(くつ)・堅紅粉(かたべに)が挙げられている。
[26]
幕末には、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通で囲まれた敷地
[27]に京都守護職上屋敷が建設され、元治元(1864)年に完成した
[28]。
この敷地は、慶応三(1867)年に王政復古の大号令により京都守護職が廃止された後、慶応四(1868)年から陸軍局となり、さらに明治二(1869)年以降は京都府庁となった。
[29]
明治二十二(1889)年、七条通から三哲通(現・塩小路通)まで延伸された。
[16]
第二次世界大戦中には、新町通の寺之内通~下立売通で建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ、戦後、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われたため、下立売通以北は広い通りとなっている。
[30]
現在は中世~近世の繁華街の面影はなく、裏通りといった印象であるが、通り沿いには繊維問屋が多い。
祇園祭の山鉾巡行では、巡行を終えた山鉾(一部)が新町通を通って各町内へ戻っていく。
四条通や御池通と違い、新町通では昔ながらの狭い通りを行く山鉾を見ることができる。