東京極大路と東洞院大路の中間に位置する小路。
平安時代、この小路沿いには中御門大路との交差点の北東角に紀貫之(きのつらゆき/平安時代前期~中期の歌人)邸「桜町」、六条大路との交差点の北東角に源融(みなもとのとおる/嵯峨天皇の皇子)の河原院(かわらのいん)などの邸宅があった。
[3]
平安時代後期以降、六条大路との交差点付近には京仏師の院派(いんぱ/平安時代後期の仏師・定朝[じょうちょう]の門弟たちの一派)によって開かれた七条大宮仏所(ぶっしょ/仏像の工房)から分派した六条万里小路仏所があったようである。
[4]
平安時代末期には、九条大路との交差点付近に皇嘉門院(こうかもんいん/崇徳天皇の中宮)の御所や藤原兼実(ふじわらのかねざね/皇嘉門院の弟で平安時代末期~鎌倉時代初期の摂政・関白)の九条亭(九条第)などがあった。
[3]
皇嘉門院の御所は、九条大路との交差点の北西角(左京九条四坊五・六町)にあったとされているが、たびたび炎上したため、九条大路の南側、万里小路の延長部分(万里小路末)の東側(京外)に御所を新造し
[3]、新造御所の南側の小路(京外)を「今小路」と呼んだ
[5][6]という。
藤原兼実の九条亭は、東限が富小路であったという『玉葉』の記述
[7]から九条大路との交差点の北東角(左京九条四坊十二町/皇嘉門院の御所の東隣)にあったとされており、皇嘉門院の死後は皇嘉門院の御所も兼実の所有となったようである。
[8]
平成十二(2002)年度の左京四条四坊の発掘調査
[9]では、四条大路との交差点を東に入った地点が平安京造営当初は湿地であったが、平安時代中期後半(11世紀)頃埋め立てられ、宅地として開発されたことが判明した。
検出された遺構から、鎌倉時代以降、万里小路に面して町家が立ち並んでいたと考えられている。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[10]際、この小路には八条大路との交差点に篝屋が設置された
[11]。
『親鸞聖人絵伝』によれば、弘長二(1263)年十一月二十八日、親鸞(しんらん/浄土真宗の宗祖)はこの小路沿い(押小路との交差点の南、東側)にあった善法院(ぜんぽういん/善法坊[ぜんぽうぼう])で死去したという。
[3]
南北朝時代には足利尊氏の邸宅が二条大路との交差点の南西角、足利直義(ただよし/尊氏の弟)の邸宅が三条坊門小路との交差点の南西角にあったと推定されている。
[12]
初期には幕府の政務は基本的に直義が行ったとされており
[12]、室町幕府発祥の地ともいえる。
尊氏邸と直義邸にはさまれた場所には等持院(とうじいん/仁和寺・龍安寺の近くにある寺院とは別)という仏堂が設けられ、後に「等持寺(とうじじ)」という寺院に改められたが、等持寺は尊氏邸の旧地を取り込んで北側に拡大されたと推定されている。
[13][14]
また、正平五/観応元(1350)年~正平七(1352)年の観応の擾乱による直義の失脚後は、それまでの直義邸(三条坊門殿)に足利義詮(よしあきら/尊氏の子で後の第二代将軍)が入ったが、将軍となった後の貞治三(1364)年、義詮は三条坊門殿の東隣に新邸を建設した。
[15]
この邸宅は、義詮の子の足利義満(第三代将軍)に引き継がれ、永和四(1378)年に花の御所(室町殿)に移るまで義満の居所となった
[12]が、それ以降も歴代の足利将軍に「下御所(しものごしょ)」と呼ばれて重要視され、しばしば使用された。
[15]
南北朝時代から行われるようになった祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の山鉾巡行は、貞治三(1364)年頃から旧暦の六月七日(西暦の7月17日)と旧暦の六月十四日(西暦の7月24日)の両日に行われるようになったと推定されており
[16]、六月七日には四条大路→東京極大路→五条大路、六月十四日には三条大路→東京極大路→四条大路がそれぞれ山鉾の巡行路となったと考えられている
[17]。
しかし、『満済准后日記』応永三十四(1427)年六月十四日条には、山鉾が万里小路を上って内裏へ参った旨の記述があり、『師郷記』宝徳三(1454)年六月十四日条によれば、室町殿(室町幕府第八代将軍の足利義政)に参るように命じられたため、同日に山鉾が万里小路を北へ進み、鷹司小路を西に折れて、高倉小路を北へ進み、義政は高倉小路の延長部分と武者小路との交差点の北東角にあった烏丸殿の四足門(よつあしもん)の北に桟敷を構えて見物したという。
室町時代には、足利将軍や天皇・上皇が見物するために山鉾が上京まで参上することがたびたびあったようである。
[18]
応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、この小路沿いには一条大路から楊梅小路にかけて15軒の酒屋があった
[19]ようである。
室町時代、北は正親町小路、南は土御門大路、東は富小路、西は万里小路で囲まれた地域は、中央部に村上源氏の土御門家の邸宅があり、周囲(街路に面する部分)に公家・武家・寺社の使用人や商人・職人が居住して「土御門四丁町(つちみかどしちょうちょう)」と呼ばれた。
[20][21]
この部分の土御門大路は、鎌倉時代~南北朝時代に本来の道幅10丈(約30m)のうちの北側の4丈(約12m)が巷所化(宅地化)され、道幅は6丈(約18m)に減少したと推定されている。
[20][21]
宝徳四(1452)年に土御門有通(つちみかどありみち)が早逝して土御門家が断絶した後、土御門四丁町の敷地は大徳寺塔頭の如意庵(にょいあん)に寄進されたが、土御門邸の跡地が分割されて土倉などとなった以外は、大きな変化はなかったようである。
[20][21]
大炊御門大路との交差点の北東角には室町幕府の管領、畠山家の邸宅があった。
[22]
文正二(1467)年一月、畠山政長(はたけやままさなが)が管領を罷免されたことに怒り、この邸宅に火を放ち、上御霊社(かみごりょうしゃ/上御霊神社)に布陣して応仁の乱が幕を開けた。
[23]
この小路沿いには、東軍の拠点であった三宝院(さんぽういん/土御門大路との交差点の南西角)
[24]や西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)の陣であった等持寺があったため、戦場となることもあった。
応仁元(1467)年九月には、東軍の武田基綱(たけだもとつな)の軍勢が等持寺に矢を射かけたのを発端に、西軍が三宝院や浄花院(じょうげいん/土御門大路と室町小路との交差点付近)を焼き討ちにし、周辺の多くの公家や武家の邸宅が延焼したという。
[25][26]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続きこの小路を荒廃させ
[27]、戦国時代はこの小路の二条大路~姉小路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の東限に位置したが、実質的な市街からは外れていた
[28]。
永正十二(1515)年、室町幕府第十二代将軍の足利義稙(あしかがよしたね)はかつて下御所が存在した万里小路との交差点付近に新しい御所を造営した。
[29]
この付近は下京惣構の外側となっていたが、新御所の造営によって上京から町人たちが移住し、周辺は賑やかな市街地となったようである。
[29]
天正十八(1590)年、この通りは豊臣秀吉によって再開発された。
[27]
天正十七(1589)年には二条通との交差点付近に日本最初の公許の遊郭が開かれ、「二条柳町」などと呼ばれた
[30]が、慶長七(1602)年に六条に移転した
[31]。
「柳馬場通」の名の由来は、遊郭があった当時、通りの左右に柳の並木があったことや
[27]、慶長九(1604)年に豊国臨時祭で遊郭の跡地にて馬揃(うまぞろえ)が行われた際に、二条通に沿って柳が植えられたこと
[32]など諸説あるが、旧称を踏襲して「万里小路通」とも呼ばれた
[33]。
江戸時代には、この通り沿いに木地屋・漆屋・合羽屋・つづら・扇の骨・茶柄杓などの商家があったようである。
[34]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として鍔(つば)・雨紙羽(あまがっぱ)・鉄・冰蒟蒻(こおりこんにゃく)・土圭細工(とけいさいく)が挙げられている。
[35]
また、豊前小倉藩小笠原家屋敷(竹屋町通~夷川通、東側)・出羽久保田藩佐竹家屋敷(錦小路通~四条通、西側)・大和小泉藩片桐家屋敷(綾小路通~仏光寺通、西側)など諸藩の京屋敷が点在した。
[33]
柳馬場通は、北は椹木町通まで達していた
[34]が、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した
[36]ことに伴い、丸太町通以北の通りが消滅した
[27]。
現在は、丸太町通との交差点の南東角には京都地方裁判所があるため、丸太町通~夷川通には弁護士や司法書士の事務所が多い。