大宮大路と朱雀大路の中間に位置する大路。
平安時代には、この大路の西側、二条大路から三条大路にかけて大学寮(だいがくりょう)・弘文院(こうぶんいん)・勧学院(かんがくいん)という教育施設があった。
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九条大路との交差点の北東角には東寺(とうじ)が置かれ、二条大路との交差点の南東角には神泉苑(しんせんえん/宮中に属する禁苑)が設けられた。
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天長年間(824~834)、淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅命により空海が神泉苑で祈雨(雨乞い)を行ったといい
[5][6]、神泉苑は後に東寺管下の祈雨道場となったようである。
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貞観五(863)年には神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ/非業の死や不慮の死を遂げた者への鎮魂のための祭礼)が行われ
[8]、これは後の祇園会(ぎおんえ/祇園祭)のルーツとなった。
正暦二(991)年、綾小路との交差点の南西角に壬生寺が創建され、建保元(1214)年に坊城小路を隔てて向かい側(西側/現在地)に移転した。
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『平家物語』(延慶本)によれば、七条大路と坊城小路・壬生大路との交差点の辺りを「北猫間」「南猫間」といい、「猫間中納言(ねこまのちゅうなごん)」と呼ばれた藤原光隆(ふじわらのみつたか)は北猫間に住んでいたという。
『明月記』安貞元(1227)年一月二十六日条・二十七日条によれば、壬生大路の東側、土御門大路の北側の大宿直(おおとのい/大舎人[おおとねり/交代で宮中に宿直し、雑用などを担った下級役人]の詰所)に織物の織手たちが集住したといい、鎌倉時代前期には二条大路を越えて大内裏内にも道が延びていたことがうかがえる。
同時期には、四条大路との交差点付近に嘉陽門院(かようもんいん/後鳥羽上皇→法皇の皇女)の御所があり、従弟にあたる後堀河天皇(ごほりかわてんのう)がしばしば行幸(ぎょうこう/天皇の外出)したとの記録が残っている
[10]が、寛喜二(1230)年に焼失した。
[11]
文応元(1260)年の『石清水臨幸記』によれば、同年八月の石清水臨幸(後深草上皇[ごふかくさじょうこう]の石清水八幡宮[いわしみずはちまんぐう]参詣)に「壬生小路」の五条大路~六条大路が使われている。
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この大路も、平安時代中期以降の右京の衰退とそれに伴う朱雀大路の衰退の余波を受けたと考えられるが、前述のように平安時代末期にも邸宅や御所があり、発掘調査
[13](後述)によって室町時代前半まで都市的様相を呈していた場所もあったことが判明している。
南端部では道路が耕作地化(巷所化)した場所もあり、鎌倉時代の永仁四(1296)年には「壬生巷所」の名がみえ
[14]、南北朝時代の応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、同年時点でこの大路の信濃小路~九条大路が東寺領巷所となっていたようである
[15]。
大路名は、室町時代以降に地域名として定着した。
天文五(1536)年に天文法華の乱が起こった当時は、この大路沿いに立本寺(りゅうほんじ/四条大路との交差点の南東角)という法華寺院があり
[16]、比叡山延暦寺の軍勢によって焼き討ちにされて堺へ避難した
[17]。
四条通の周辺では集落が形成され、「壬生村」と呼ばれた。
文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱の最中や乱後の文明年間(1469~87)には、六条大路との交差点付近や七条坊門小路との交差点付近の田畑をめぐってたびたび争論が起こっていたようである。
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江戸時代の地誌類ではこの通りについてあまり触れられていないが、『山州名跡志』の壬生寺の項によれば、江戸時代には野道となっていたようである。
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江戸時代の地図
[20]を見ると、北は中堂寺通から曲折しながら九条通に至っていたようである。
『拾遺都名所図会』「壬生隼社」では、壬生菜が壬生の名産として記載されており、壬生菜以外にも瓜、茄子、藍の生産で知られていたようである。
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狭い通りとなっていたが、第二次世界大戦中に壬生通の後院通~七条通で建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ、戦後、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われた。
[22]
現在の壬生通は、全区間を通して「壬生通」とも「壬生川通」とも呼ぶが、特にJR線以北を壬生川通、JR線以南を壬生通と呼ぶことが多い。
壬生通は、錦小路通以北で大きく曲がっている。