大内裏の待賢門(たいけんもん)・藻壁門(そうへきもん)に通じる大路。
待賢門は「中御門(なかのみかど)」とも呼ばれ、藻壁門は「西中御門(にしのなかのみかど)」とも呼ばれた。[1]
門屋(建物)のない上東門・上西門を除くと、陽明門・待賢門・郁芳門の3門(右京側は殷富門・藻壁門・談天門)の中央に位置する[4]ことによる呼び名であろうか。

『三代実録』貞観元(860)年十二月二十五日条には、この大路の延長部分(中御門大路末)で賀茂の斎院の儀子内親王(ぎしないしんのう)が禊(みそぎ)をした旨の記述があり、平安時代前期から東京極大路を越えて鴨川西岸まで道が延びていたものと思われる。

平安時代、この大路沿いには公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。[3][5]
堀川小路との交差点の南東角には高陽院(かやのいん)があり、治安元(1021)年に藤原頼通(藤原道長の子、平安時代中期の摂政・関白)が敷地を広げて四町規模の大規模な邸宅を造営した。[5]
その後、後冷泉天皇以降五代の天皇の里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった[5]が、『中右記』寛治六(1092)年六月七日条によれば、高陽院にはしばしば虹の市が立った[6]という。

『平家物語』によれば、嘉応二(1170)年十月二十一日、平重盛(たいらのしげもり)の軍兵たちが猪隈小路・堀川小路との交差点周辺で摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)の一行に乱暴狼藉を働いた。[7]

高陽院は、後鳥羽上皇の御所として元久二(1205)年に造営された時期には、二町規模(油小路以東)に縮小した。[5]
後鳥羽院政の拠点となったが、承久の乱後の貞応二(1223)年に放火により焼亡し[8]、以後は再建されなかったようである。

この大路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、右京一条三坊の発掘調査(後述)によって、鎌倉時代まで宅地として利用された場所もあったことが判明している[9][10]
中世以降、周辺が耕作地となった後も再び道路として機能した可能性のある場所も見つかっている。[11]
中御門大路の木辻大路~西京極大路では、12世紀後半に宇多川の流路となっていたようである。[12]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[13]際、この大路には大宮大路との各交差点に篝屋が設置された。[14]

南北朝時代~室町時代には、堀川小路との交差点の北西角に一色家(守護大名)の邸宅があり、元中八/明徳二(1391)年に起こった明徳の乱(室町時代の守護大名である山名氏が室町幕府に対して起こした反乱)の内野合戦では、足利義満が陣を移して本営とした。[15]
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、東京極大路から堀川小路にかけて9軒の酒屋があった[16]ようである。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、この小路沿いに西軍の主要人物であった斯波義廉(しばよしかど)の邸宅「武衛殿(ぶえいどの/武衛陣)」(室町小路との交差点の北東角)[17]があったことから、乱の序盤に武衛殿付近が複数回にわたって戦場となり[18]、一色家の邸宅も放火されて一帯が焼亡するなど[19]など、兵火や放火による延焼を受けた。
文明元(1469)年以降は洛中での戦闘は少なくなるが、文明六(1474)年、和睦交渉が細川政元(ほそかわまさもと/東軍)と山名政豊(やまなまさとよ/西軍)との単独講和という結果に終わると、乱は再燃し、この大路付近で西軍の足軽が同じ西軍の大内政弘(おおうちまさひろ)の軍勢と合戦を行った。[20]

乱によって大宮大路以東のこの大路は荒廃したが[21]、乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この大路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。[22]

永禄二(1559)年から永禄三(1560)年にかけて、斯波氏の武衛殿(室町小路との交差点の北東角)を再興して足利義輝(あしかがよしてる/室町幕府第十三代将軍)の邸宅(二条御所)が築かれた。[17][23]
永禄八(1565)年の永禄の変によって義輝は殺害され、二条御所も焼失して付近も戦場となった[24]が、永禄十二(1569)年に織田信長が跡地を拡張して室町幕府第十五代将軍の足利義昭のために邸宅(旧二条城)を造営した。[25]
旧二条城の範囲は北は近衛大路、南は春日小路の北、東は東洞院大路、西は町小路の東と推定されている[26]が、元亀四(1573)年に義昭が信長に追放された後、旧二条城は破却された[25]

左京部分の通りは天正十八(1590)年に豊臣秀吉によって再開発され[21]、通り沿いに椹の材木屋が多かったことから「椹木町通」と呼ばれるようになったという。[27]

天正十五(1587)年にほぼ完成した[28]という豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい/後に豊臣秀次の邸宅となった)は猪熊通との交差点の西側にあり[29]、当時は非常に賑わったという[21]
同時期には、この通りの堀川通~大宮通には魚鳥・蔬菜(≒野菜)・果物などの市場があり、様々な商人がいて「上魚棚通(かみうおのたなどおり)」とも呼ばれたようであるが、宝永五(1708)年の大火の後、市場はこの通りの西洞院通~堀川通に移った。[21]

江戸時代には、この通り沿いに昆布・白木・生魚・八百屋などの商家があり、陰陽師も住んでいたようである。[30]
東は寺町通まで達していたが[30]、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が烏丸通の東側まで拡大した[31]ことに伴い、この通りの烏丸通以東が消滅した。[21]

椹木町通の上の店(かみのたな)は京都最大の魚鳥菜果市場として栄え、下京の魚の棚(うおのたな/下魚棚通)、中京の錦の店(にしきのたな/錦小路通の錦市場)とともに三店魚問屋[32]として並び称されたが、昭和二(1927)年に京都市中央卸売市場が開場したため、魚問屋街としての歴史を閉じた[33]
現在の椹木町通は、住宅地の中を走る狭い通りである。

丸太町通は、鴨川の東側から洛中を貫いて嵯峨野に至る幹線道路であり、御前通~佐井通が中御門大路にほぼ重なる。
大正十(1921)年から15年近くにわたって行われた京都都市計画道路新設拡築事業では、丸太町通の千本通~西大路通が京都市区改正街路11号線として拡幅された。[34]
昭和三(1928)年に市電丸太町線が烏丸丸太町から西ノ京円町(後に円町と改称/西大路通との交差点)まで延伸されたが、昭和五十一(1976)年に全線廃止された。

◆ 昭和五十六(1981)年度の右京一条三坊五町の発掘調査[9]及び同年度の二条三坊九町の発掘調査[10]では、中御門大路沿いで鎌倉時代までの建物跡が検出されたが、中世以降は概ね耕作地となったようである。
◆ 昭和五十三(1978)年度の右京一条三坊四町の発掘調査[11]では、道祖大路との交差点を西に入った地点で平安時代前期~中期の中御門大路北側溝に重複して中世の溝が検出されており、再び道路として機能した可能性も考えられ、耕作地となっても長く平安京条坊の地割が意識されていたようである。


[1] 『拾芥抄』(『故実叢書』第11巻増訂版、吉川弘文館ほか、1928年、386~389頁)

[2] 『貞信公記』天暦二(948)年五月十五日条

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、150頁

[5] 古代学協会ほか編、同上、180・209~213頁

[6] 俗説に基づいて、虹のかかったところに市を立てる風習があった。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、250~251頁

[7] 同年の十月十六日もしくは七月三日に基房の従者たちが平資盛(たいらのすけもり/重盛の次男)以降に乱暴狼藉を働いており、その報復である。この事件を「殿下騎合(てんがののりあい)」という。

[8] 『百錬抄』貞応二(1223)年一月十二日条

[9] 吉崎伸「右京一条三坊」『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年

[10] 辻裕司「右京二条三坊」『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年

[11] 「平安京右京一条三坊四町」『昭和53年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2011年

[12] 平田泰「平安京右京一条四坊」『平成4年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1995年

[13] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[14] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[15] 山田徹『京都の中世史4 南北朝内乱と京都』 吉川弘文館、2021年、246~247頁

[16] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[17] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、211頁

[18] 『後法興院記』応仁元(1467)年六月二十五日条・七月三日条・十六日条・二十四日条・二十六日条

[19] 『応仁記』巻二によれば乱妨人による放火、『経覚私要鈔』応仁元(1467)年六月十二日条によれば京極持清に占拠されるのを恐れて一色五郎(義春)自ら焼いたという。

[20] 京都市編『京都の歴史3』 学芸書林、1968年、348頁

[21] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、286頁)

[22] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[23] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、94~96頁

[24] 『言継卿記』永禄八(1565)年五月十九日条

[25] 尾下ほか、前掲書、96~97頁

[26] 山田(邦)、前掲書、227頁

[27] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、261頁)

[28] 『兼見卿記』天正十五(1587)年九月十三日条

[29] 山田(邦)、前掲書、236~239頁

[30] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21頁)

[31] 同年発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町が再編された。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、197・211頁

[32] 上京区一二〇周年記念事業委員会編『上京区一二〇周年記念誌』 2000年、148・157頁

[33] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、116頁

[34] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、25~28頁