朱雀大路と皇嘉門大路の中間に位置する小路。
平安時代、この小路沿いには二条大路との交差点の南西角に穀倉院(こくそういん/朝廷の食料庫)があり、三条坊門小路の北側にはこの小路をはさんで東側に右京職(うきょうしき/右京の行政をつかさどる役所)、西側に藤原良相(ふじわらのよしみ/平安時代前期の公家)の邸宅「西三条第(百花亭)」があった。
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発掘調査(試掘・立会調査を含む)
[3][4][5][6][7]では、西坊城小路の東側溝・西側溝が検出されているが、西坊城小路は平安京造営当初に設けられ、側溝は概ね鎌倉時代までに埋没したようである。
押小路との交差点付近の試掘調査及び三条坊門小路との交差点を上がった地点の調査
[8][9]では、西坊城小路の推定位置で遺構が検出されなかったことから、穀倉院には西坊城小路が敷設されなかった可能性が高いと考えられている。
『續日本後記』承和八(841)年二月二十五日条によれば、平安京の官設市場であった西市(にしのいち)の北東の空閑地に右坊城出挙銭所という施設が設置されたようであるが、その名称からこの小路に面していた可能性が考えられる。
この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、朱雀大路に近いため、藤原俊盛(ふじわらのとしもり)の邸宅(四条大路との交差点の南東角)など、平安時代末期にも小路沿いに邸宅が存在した。
また、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、楊梅小路との交差点の周辺では町家や御堂、園地など多くの遺構が発掘調査
[10][11]によって検出されている。
江戸時代以降、四条通と現在の西新道の交差点付近は、四条通に沿って西流していた四条川から堀子川が分流する地点であり、架かっていた橋の名前から「高橋」と呼ばれたが、壬生村と西院村の間の人家が途切れた場所であったため明治時代中頃まで夜になると追いはぎが出没したという。
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六軒町通は江戸時代には南は下立売通までであった
[13]が、明治時代以降に延伸された。
通り名は、町地となる際に人家が6戸であったことに由来するという。
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ほぼ西坊城小路に重なるが、西坊城小路と六軒町通との間に連続性があるとは言いがたい。