当初、この小路は「具足小路(ぐそくこうじ)」と呼ばれていたようである。
それが訛って「屎小路(くそのこうじ)」ともよばれたようであるが、錦小路に改称された理由について、『宇治拾遺物語』巻ニに次のような話(「清徳聖奇特の事」)がある。

昔、清徳聖(せいとくひじり)という聖がおり、母親が亡くなった後、愛宕山で3年間念仏を唱え続けた。
すると「念仏のおかげで成仏できた」という母親の声が聞こえたので、安心して下山した。
京へ出る道の途中で、農民の男から米一石をもらうと、腹が減っていたので、全て食べてしまった。
これを聞いた右大臣(藤原師輔/ふじわらのもろすけ)が聖を呼び、米十石を与えたが、聖の尻には餓鬼や畜生、鳥獣などが大量についており、それらが全て食べてしまった。
その餓鬼や畜生、鳥獣などが四条大路の一筋北の小路で一斉に糞をしたので、小路は糞だらけになり、「屎小路」と呼ばれるようになった。
これを聞いた天皇(村上天皇)が臣下に「四条の南の小路は何と呼ぶのか」と尋ね、臣下が「綾小路と申します」と答えたところ、天皇が「それならば錦小路と呼ぼう、あまりに汚い名である」と言ったので、錦小路と呼ぶようになった。

『掌中暦』によれば、実際は天喜二(1054)年に後冷泉天皇の宣旨によって、具足小路を錦小路に改称したようである。

この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

鎌倉時代以降、この小路の左京部分は商工業街として発展し、室町時代には13軒あった酒屋[3]をはじめ、材木屋・伯楽座(ばくろうざ)・小袖座など多様な職商人がみられ、京における商工業の中心の1つとなった。[4]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させたが[5]、明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は高倉小路~油小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね烏丸小路の東~油小路の西が下京の市街を形成した。[6]

平成元(1989)年度の左京四条三坊の発掘調査[7]では、烏丸小路との交差点を東へ入った地点で、錦小路の南辺に沿って室町時代後期(15世紀末葉)~安土桃山時代初頭に機能していたとみられる濠が検出され、下京の防御施設の一端を担ったものと考えられている。

天正十八(1590)年、錦小路通は豊臣秀吉によって再開発された。[5]
江戸時代には、六角通から生魚市場が移されて[4]魚介類や野菜などが売られるようになり[1][8]、市が形成されて現在の錦市場の原型となった。
東は寺町通から西は千本通までで、魚屋や八百屋が多かった。[1][8]

高倉通との交差点付近には青物立売市場があり、明和七(1770)年に町奉行所から一旦公認を受けたものの、翌年取り消されたが、京近郊の百姓たちの請願により安永八(1779)年に年35枚の冥加銀(みょうがぎん/営業免許を付与された代償として納める租税)を条件に再開されたという。[9]

現在の錦市場は、寺町通から高倉通までのアーケードに魚介類や生鮮食料品を売る店が100軒以上ひしめいており、「京の台所」と呼ばれている。
幅約3mほどの狭い通りを様々な人々が行き交い、年中活況を呈している。

[1] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、274頁

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[3] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[4] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[5] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、296頁)

[6] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[7] 小森俊寛・上村憲章「平安京左京四条三坊2」『平成元年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1994年

[8] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、23頁)

[9] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、693頁