皇嘉門大路と西大宮大路の中間に位置する小路。
平安時代、この小路沿いには二条大路との交差点の南西角に学館院(がくかんいん/橘氏の教育施設)、四条大路との交差点の北東角に源高明(みなもとのたかあきら)の邸宅である西宮(にしのみや)があったが、西宮は安和二(969)年の安和の変による高明の失脚で荒廃した。
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慶滋保胤(よししげのやすたね)は著書『池亭記(ちていき)』の中で、右京の衰退の原因は西宮の荒廃にあるとしている。
北小路との交差点の西側には、平安京の官設市場であった西市(にしのいち)があった。
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西市推定地(北小路との交差点の北西角)及び隣接地は、発掘調査
[4][5]によって、平安時代前期~中期には下級官人のものとみられる小規模宅地であったことが判明した。
この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
平安時代後期には、綾小路から五条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
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平成二十(2008)年度の右京七条一坊十五町の発掘調査
[7]では、七条坊門小路との交差点を上がった地点で平安時代の西櫛笥小路の東西両側溝が検出されている。
9世紀前半~中頃には両側溝が整然と作られ機能していたと考えられるが、9世紀後半から10世紀前半には西側溝が拡幅されて河川化していたことが判明した。
東側溝はそのまま維持され、出土遺物から10世紀前半まで機能していたものとみられる。
河川化した西側溝は、出土遺物から11世紀後半には埋没したと考えられ、中世以降調査地点付近は耕作地化したと考えられている。
南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)には「八条坊門面解縄東」とあり
[8]、解縄(西櫛笥)小路が当該時期に当該地点で街路として機能していたかどうかは不明であるが、土地の位置を示す座標としてはこの頃まで使用されていたようである。
江戸時代には北の延長線上、北は一条通から南は下立売通の南までの通りが「相合辻子(あいあいのずし)通」「藍屋辻子(あいやのずし)通」などと呼ばれた。
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明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、西櫛笥小路が概ね一条大路~三条大路で小道として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
「下ノ森通」の名は、北野天満宮の門前一帯を「下ノ森」と呼んだ
[11]ことに由来する。