平安京の西端に位置する大路。
この大路に沿って、西京極川が一条大路から九条大路まで南流していたとされる。
[2]
平安時代、この大路沿い(東側)の二条大路から三条大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)があった。
[1]
早くから荘園開発が進み、平安時代前期には六条大路から七条大路にかけて「侍従池領(じじゅういけのりょう)」(仁明天皇[にんみょうてんのう]の皇子の本康親王[もとやすしんのう]が開発した荘園)が形成され、平安時代後期には六角小路から六条大路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
[1]
長和四(1015)年、近衛大路との交差点の南東角に今宮神社が創建され
[3]、「祇花園社(ぎはなぞのしゃ)」
[4]「花園社(はなぞのしゃ)」などと呼ばれた。
[5]
今宮神社は、現在もほぼ同じ場所にある。
平安時代後期の大治五(1130)年には、この大路の西側(京外/北限は近衛大路延長線付近、南限は春日小路延長線付近)に待賢門院(たいけんもんいん/鳥羽天皇の中宮)が法金剛院(ほうこんごういん)を建立した。
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発掘調査
[7][8][9]の結果から、法金剛院付近では西京極大路が平安京造営当初は設けられず、本格的に整備されたのは法金剛院の建立の際であったと考えられる。
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平安時代後期には法金剛院の寺域が大路に張り出していたことが判明している。
また、室町時代後期や明治時代に至るまでの路面が検出された場所もあり、二条大路以北では後世まで道路として存続した部分もあったようである。
二条大路以南では道路の遺構が全く検出されておらず(右京七条四坊十三町の発掘調査
[11]では平安時代前期の建物遺構を検出)、道路の存在を疑問視する声もあるが、 「建物遺構の存在から少なくとも七条までは何らかの形で条坊が施工されていた可能性は高い。」
[12]と考えられている。
『宇治拾遺物語』巻十三によれば、この大路と八条大路の交差点付近には畑が広がり、その中にあばら屋が建っていたという。
現在、西京極大路にあたる通りは途切れ途切れに存在するのみで通り名はない。
大路名は地域名として定着している。