東京極大路と朱雀大路の中間に位置する大路。
平安時代には公家の邸宅が点在し、大路名が示すように里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)や上皇の御所も多く営まれ、一条大路から春日小路もしくは大炊御門大路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。
[5]
南部には、九条坊門小路との交差点の南西角に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん/空海が創設した庶民のための教育施設)、南東角に施薬院(せやくいん/貧しい病人を収容・治療する施設)があった。
[5]
この大路に沿って、西洞院川(町口川から連続)が中御門大路から九条大路まで南流していた。
[6]
五条坊門小路との交差点の北東角には紅梅殿(こうばいどの/こうばいでん)、南東角には白梅殿(はくばいどの/はくばいでん)という菅原家の邸宅があり、菅原道真は紅梅殿を本邸とした。
[5]
有名な「東風吹かば~」の和歌が詠まれたのも紅梅殿である。
白梅殿は道真の父・是善(これよし)が居住したため、道真誕生の地として伝承されており、跡地の一角が菅大臣神社となっている。
[5]
中御門大路との交差点の南西角には高陽院(かやのいん)があり、治安元(1021)年に藤原頼通(藤原道長の子、平安時代中期の摂政・関白)が敷地を広げて四町規模の大規模な邸宅を造営した。
[5]
その後、後冷泉天皇以降五代の天皇の里内裏(大内裏ではなく京内に置かれた内裏)となった
[5]が、『中右記』寛治六(1092)年六月七日条によれば、高陽院にはしばしば虹の市が立った
[7]という。
二条大路以南は一筋東の町小路とともに庶民の街として発展し、平安時代後期以降はこの大路を中心とする火災が頻発した。
[8]
『平治物語』によれば、平治ニ(1160)年一月六日、平治の乱で敗れた源義朝(みなもとのよしとも)とその家臣であった鎌田政家(かまたまさいえ)の首がこの大路を引き回され、左獄(さごく/中御門大路との交差点の北西角にあった獄舎)の獄門にさらされた。
高陽院は、後鳥羽上皇の御所として元久二(1205)年に造営された時期には、二町規模(油小路以東)に縮小した。
[5]
後鳥羽院政の拠点となったが、承久の乱後の貞応二(1223)年に放火により焼亡し
[9]、以後は再建されなかったようである。
安貞元(1227)年に内裏が未完成のまま焼失して以降、里内裏であった「閑院(かんいん)」(二条大路との交差点の南西角)が正式な内裏として扱われ、正元元(1259)年に放火によって焼失するまで使用された。
[10]
閑院内裏では、周囲の三町四方が「陣中(じんちゅう)」と呼ばれる特別な区画とされ、西洞院大路では東側は冷泉小路~二条大路、西側は押小路の南~三条坊門小路に「裏築地(うらついじ)」と呼ばれる目隠し用の塀が設けられて、冷泉小路~三条坊門小路の西洞院大路路面中央部には「置路(おきみち)」と呼ばれる貴人専用の通路が設けられた。
[10]
南部では、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)
[5]を中心に八条院町が成立した。
[11]
西洞院大路ではおおよそ塩小路から八条大路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[11][12]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
発掘調査
[13][14][15][16]でも、梅小路及び八条大路との交差点付近で、概ね鎌倉時代~室町時代の鏡の鋳型や鞴羽口などの鋳造関係の遺物が多く出土しており、八条院町における銅細工師の活発な活動の痕跡がうかがえる。
『民経記』寛喜三(1231)年六月三日条によれば、塩小路との交差点付近に「潤屋」と評される町家が建ち並んでいたようであるが、同日に群盗に囲まれて放火され、炎上したという。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[17]際、この大路には一条大路・姉小路との各交差点に篝屋が設置された
[18][19]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[20][21]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[22]
室町時代には、この大路は町小路・室町小路とともに商工業の中心街となり、二条大路~五条大路を中心に酒屋が点在した。
[8]
応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から七条大路にかけて23軒の酒屋があったようである。
[23]
『建内記』嘉吉元(1441)年六月二十四日条によれば、同日に二条大路との交差点付近にあった赤松満祐(あかまつみつすけ)の邸宅で、室町幕府第六代将軍の足利義教(あしかがよしのり)が暗殺された(嘉吉の変)。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、応仁元(1467)年六月に近衛大路との交差点付近で東軍の畠山政長(はたけやままさなが)勢と西軍の斯波義廉(しばよしかど)勢が衝突
[24]するなど、戦場となったり近隣の兵火による延焼も受けて、この大路は荒廃したとみられる。
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この大路は土御門大路以北が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね一条大路以北が上京の市街を形成した。
[25]
また、四条坊門小路~五条大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね四条坊門小路~高辻小路が下京の市街を形成した。
[25]
天文五(1536)年に起こった天文法華の乱によって京を追われていた本能寺が、天文十一(1542)年に後奈良天皇の勅許によって京への帰還を許され、四条坊門小路との交差点の北西角に移転したと推定されており
[26]、天文十六(1547)年より再建が行われたようである
[27]。
『熊谷(純)家文書』には、天文十四(1545)年六月に油小路との交差点の北東角の土地が土倉の沢村氏から本能寺に売却された記録が残っている。
[28]
元亀元(1570)年、織田信長が上洛して本能寺に入り
[29]、天正八(1580)年、村井貞勝(むらいさだかつ/織田信長の家臣)に命じて本能寺城としての普請(工事)を行った
[27][30]。
天正十(1582)年、「本能寺の変」が起こって信長は自害に追い込まれ、本能寺(城)は焼失した。
[31]
天正十一(1583)年、豊臣秀吉は二条大路との交差点の南東角にあった妙顕寺
[32]を寺之内通に移転させて、跡地に自身の城館(妙顕寺城)を築き、天正十三(1585)年に完成したという。
[33][34]
妙顕寺城は周囲に堀をめぐらし、天守もあったようであり、北を二条通、南を御池通、東を西洞院通、西を油小路通に囲まれた範囲を占めていたと推定されているが、天正十五(1587)年の聚楽第(じゅらくてい)完成に伴って廃城となった。
[33][34]
本能寺は天正十五(1587)年に秀吉によって現在地(寺町通と御池通との交差点を下がった場所)へ移転させられた。
[35]
天正十八(1590)年、この通りは秀吉によって再開発された。
[36]
慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。
[37]
この遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。
[37]
足利将軍家の剣術師範であった吉岡憲法(よしおかけんぽう)は、慶長十九(1614)年の大坂冬の陣で大坂方について敗北後、四条大路との交差点付近に住んで染物業に転向し、西洞院川の水を利用して「憲法染」を開発した。
[38]
「西洞院紙(にしのとういんし)」というのは、西洞院川のほとりで漉(す)いた漉きかえしの紙(再生紙)のことで、専ら宿紙(天皇が出す綸旨(命令)用)・鼻紙に用いられた。
[39]
江戸時代の西洞院通は、北は武者小路通から一条通を経て南は七条通までで、紅屋・雪駄屋・茶染屋・土佐紙・半切紙・扇地紙・鍛冶・左官などの商家があり、竹屋町通との交差点の南には鍛冶職人の同業者町があったようである。
[40][41]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として椙(すぎ)細工茶具・棗塗師(なつめぬし)・憲法染・織絞・雪踏(せった)が挙げられている。
[42]
西洞院川は、室町時代に一度消滅したものの、戦国時代に堀川の水を引いて復活したといい
[43]、二条通~六角通が暗渠、六角通から南が開渠となっていたようである。
[36]
蛸薬師通との交差点を下がった辺りでは、通りの真ん中を川が流れており、豊臣秀吉による都市改造以降はこの通りより西を「川西」と呼んだ。
[41]
『高辻西洞院町文書』には、嘉永元(1848)年に西洞院通の道普請(道路工事)が行われたという記録が残っている。
[44]
幕末には、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通で囲まれた敷地
[45]に京都守護職上屋敷が建設されたため、この通りの下長者町通~下立売通は西にずれている。
守護職上屋敷は元治元(1864)年に完成した
[46]が、この敷地は、慶応三(1867)年に王政復古の大号令により京都守護職が廃止された後、慶応四(1868)年から陸軍局となり、さらに明治二(1869)年以降は京都府庁となった。
[47]
『京都府地誌』によれば、明治時代初期の西洞院川は、西九条村内の信濃小路通で分岐し、西流は西九条村東南の養水となり、東流は東九条村の養水となって、再度合流して上鳥羽村に入り、鳥羽川に注いでいたようである。
[48]
西洞院川は、明治三十六(1903)年から明治三十八(1905)年にかけて、七条通以北が埋め立てられて市電の軌道敷となり
[49]、七条通以南も昭和時代に消滅した。
明治三十七(1904)年、この通りの四条通~塩小路通に京都電気鉄道西洞院線(後に京都市電堀川線の一部となる)が開業し、軒先すれすれを電車が行き交っていたが、昭和三十六(1961)年に廃止された。
[50]
京都は第二次世界大戦の戦禍を逃れたものの、終戦から5年が経過しても道路はデコボコで、一たび雨が降るとドロ沼のようになる状況であり、この通りの八条通から十条通にかけての約700mを、一市民が私財を投じて砂利を運び、地均し(じならし)したことを昭和二十五(1950)年6月17日付京都新聞が報じている。
[51]
市電が走っていた名残で、蛸薬師通以南は比較的広い通りとなっている。
西洞院川は消滅したが、現在でもこの通り沿いには染物業者が多い。