平安時代、この小路沿いには一条大路から冷泉小路にかけて厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)、北小路との交差点付近に平安京の官設市場であった西市(にしのいち)などがあった。
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平安時代前期には、二条大路との交差点の北東角に小野篁(おののたかむら/平安時代前期の公家・歌人)の邸宅があったという。
[3][4]
右京一条二坊八町(土御門大路との交差点の南西角)には隼人司(はやとのつかさ/大内裏の門の警護にあたる隼人の管理をつかさどった役所)があり、当初は独立した司であったが、大同三(808)年に兵部省(ひょうぶしょう/軍政一般を担った役所)に属されて隼人たちは兵部町(兵部省の下級役人などの宿所)に移住し、この地は空地となったという。
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その後、この地には紀貫之(きのつらゆき)が一時邸宅を構えた後、延喜五(905)年に安楽寺天満宮が建立され、後に菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊を鎮めるために設けられた北野社(北野天満宮)の7箇所の神保所(神供所/七保)の1箇所目として「一ノ保社(いちのほしゃ)」と呼ばれるようになった。
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右京の一条大路から二条大路の間には、北野社に奉仕する社人(神人/じにん)たちが7箇所の神保所(七保)に分かれて居住した
[7]といい、神保所を中心に団結するようになった。
社人たちは北野神人(きたのじにん)・西京神人(さいきょうじにん)などとも呼ばれ、免税や酒麹製造販売独占権が認められ、「酒麹座」を結成して利益を上げた。
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右京八条・九条域での発掘調査では
[8][9][10]、西靱負小路の路面のほぼ直下で水路が検出され、平安京造営当初は西靱負小路の路面は形成されず、物資搬入を目的とした水路として機能し、早い段階でその上に小路が設けられたと考えられている。
路面幅は4~6mで、東西両側溝は『延喜式』記載の規模に比べ、2~3倍の幅を有していたことが判明し、水量が豊富であったようである。
西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようであり
[11]、この小路も平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、衰退した西市周辺は平安時代後期以降「西七条」と呼ばれるようになり
[12]、衰退していく右京の中で都市的空間を形成し、鎌倉・室町時代以降も連綿と人々の営みが続いた
[13][14][15][16]ようである。
平安時代後期には、三条大路から六条坊門小路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された。
[3]
『山槐記』治承三(1179)年三月十五日条によれば、同日の平野行幸(ぎょうこう/天皇の外出)において右京部分の正親町小路と一条大路の間で「大宮西小路」が使われており、さらに、『玉蘂』嘉禎四(1238)年四月十日条によれば、同日に仁和寺の法親王を訪ねた際の経路として右京部分の正親町小路以北で「猪熊小路」が使われているが、位置関係からいずれもこの小路のことではないかと考えられ、平安時代末期~鎌倉時代には平野や仁和寺に至る経路としてこの小路の北部がよく用いられたとみられる。
発掘調査(後述)によって、平安時代後期に小路全体が水路となった場所
[17]や、小路が廃絶して一度耕作地となった後、室町時代に再び道路が造られた場所
[18]があったことが判明している。
江戸時代には「行衛(ゆくえ)通」と呼ばれ、南は下立売通までで、その南は田畑であった。
[19]
宝永年間(1704~1711)以後は大火によってこの通り沿いに移転する寺院が多く、江戸時代後期には旧二条通まで延伸された。
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「天神通」の名は北野天神(北野天満宮)にちなむほか、この通り沿いに北野天満宮の創建者の1人である多治比文子(たじひのあやこ)を祀る文子天満宮や時鳥天神(ほととぎすてんじん)とも呼ばれた一ノ保社があったことに由来する。
[20]
両社とも明治六(1873)年に北野天満宮の境内に移された
[20]が、旧跡地にも社殿が建てられている。
天神通沿いにある上京区の行衛町(ゆくえちょう)という地名は、小路名の名残であるとされている。