一条大路と土御門大路の中間に位置する小路。
『山槐記』長寛二(1164)年六月二十七日条には、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二丁(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、平安京の北端の大路が一条大路と呼ばれるようになったとの記述がある。
この記述に対して、藤本孝一氏はこの「昔」というのが初期の平安京とは限らないとの見解を述べており
[5]、山田邦和氏は「昔」は初期の長岡京であると述べているが
[6]、瀧浪貞子氏が述べるように「昔」を初期の平安京だと仮定した場合
[7]、平安時代のある段階で宮城が拡張したことになり、拡張前は大宮大路~西大宮大路の区間にも道路が存在したことになる。
平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあった。
[1][4]
『山槐記』永暦ニ(1161)八月二十日条によれば、同日の平野行幸(ぎょうこう/天皇の外出)においてこの小路の右京部分(西大宮大路~木辻大路)が使われ、また、『山槐記』治承三(1179)年三月十五日条によれば、同日の平野行幸(ぎょうこう/天皇の外出)においてこの小路の西大宮大路~「大宮西小路」(西靱負小路とみられる)が使われ、さらに、『玉蘂』嘉禎四(1238)年四月十日条によれば、同日に仁和寺の法親王を訪ねた際の経路としてこの小路の西大宮大路~「猪熊小路」(西靱負小路とみられる)が使われており、少なくとも鎌倉時代前期までは右京部分も道路として存続していたと考えられる。
右京の道路が衰退していく中で、この小路の右京部分の道路としての寿命は長い方であったと思われる。
東京極大路との交差点の西側には、時宗の一条道場(迎稱寺)が営まれた。
[8]
南北朝時代の建武新政権期、左京部分のこの小路沿いには公家関係者に仕える武士が多く居住していたようである。
[9]
室町時代以降は、この小路沿いの町小路以西を中心とした地域に商家の進出が著しかったようである。
[8]
室町時代、北は正親町小路、南は土御門大路、東は富小路、西は万里小路で囲まれた地域は、中央部に村上源氏の土御門家の邸宅があり、周囲(街路に面する部分)に公家・武家・寺社の使用人や商人・職人が居住して「土御門四丁町(つちみかどしちょうちょう)」と呼ばれた。
[10][11]
この部分の土御門大路は、鎌倉時代~南北朝時代に本来の道幅10丈(約30m)のうちの北側の4丈(約12m)が巷所化(宅地化)され、道幅は6丈(約18m)に減少したと推定されている。
[10][11]
宝徳四(1452)年に土御門有通(つちみかどありみち)が早逝して土御門家が断絶した後、土御門四丁町の敷地は大徳寺塔頭の如意庵(にょいあん)に寄進されたが、土御門邸の跡地が分割されて土倉などとなった以外は、様相に大きな変化はなかったようである。
[10][11]
平成九(1997)年度の左京北辺四坊の試掘調査
[12]では、東京極大路との交差点を西に入った地点で正親町小路の路面と鎌倉時代(13世紀)の遺物を含む南側溝が検出されたが、路面上に柱穴や土壙が掘られており、調査地点付近では室町時代には正親町小路は機能していなかった可能性が指摘されている。
ただし、文正二(1467)年に正親町東京極(東京極大路との交差点)付近にあった土倉が悪党によって放火され、猛火に包まれたとの記録
[13]があり、道路としては存在していた可能性も残ると思われる。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、戦場となった一条大路に近接しており、この小路沿いには東軍の拠点であった内裏(東洞院大路との交差点の南東角)があったことから、乱の序盤で軍勢の通路となったり、周辺の多くの公家や武家の邸宅が延焼したという。
[14]
乱によって大宮大路以東のこの小路は荒廃したとみられ、内裏のみがかろうじて生き残っている状況となったが、内裏も荒廃していたようである
[15]。
この小路は明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされたと考えられ、油小路以東が上京惣構(かみぎょうそうがまえ/上京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置した。
[16]
一条大路以南、正親町小路以北、東洞院大路と室町小路の間には「禁裏六丁町(きんりろくちょうちょう)」と呼ばれる6つの町が形成され、公家や公家に仕える侍、僧侶、武家、商工業者が居住した。
[17]
豊臣政権の頃にこの通りで呉服の立ち売りが行われたことから、「中立売通」と呼ばれるようになったという。
[18]
一説には、絹巻物を裁縫(たちぬい)して売ったので「立売」と呼んだともいう。
[19]
天正十五(1587)年にほぼ完成した
[20]という豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい/後に豊臣秀次の邸宅となった)は猪熊通との交差点の西側にあったため、中立売通は聚楽第と内裏を結ぶ重要な道路となり、通り沿いには大名屋敷が建ち並んでいたものと推定されている。
[21][22]
中立売通に面した京都御所の「中立売御門(なかだちうりごもん)」は、公家や門跡、儒者、御用絵師、出入りの商人などが使用した門である。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉による都市改造の一環として禁裏六丁町に大名屋敷が建設されると、禁裏六丁町は瓦解し、北は土御門大路、南は近衛大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた都市集落「新在家(しんざいけ)」が六丁町として繁栄したようである。
[23]
文禄四(1595)年に聚楽第が破却された後、元和元(1615)年に通りは千本通まで延長されたという。
[24]
烏丸通以東の通りは、天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって消滅した。
[24]
江戸時代、この通り沿いには呉服所などがあった。
[25]
明治三十三(1900)年から昭和三十六(1961)まで、堀川通以西を京都市電堀川線(初期には京都電気鉄道中立売線)が走った。
千本中立売の交差点は、市電の堀川線と千本線が平面交差(ダイヤモンドクロッシング、直交)する珍しい場所で、交差点ではあまりに大きな振動を受けるため、電車の上に付いているポール(トロリーポール/路面電車でよく用いられた集電装置、パンタグラフと比べて問題が多い)が外れて運転士が直す場面がよく見かけられたという。
[26]
烏丸通~堀川通は、平成三(1991)年からヨーロッパが発祥の歩車共存道路(ボンネルフ道路)を取り入れたコミュニティ道路となっており、京都市街では第1号である。
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