大内裏の郁芳門(いくほうもん)・談天門(だんてんもん)に通じる大路。
待賢門は「大炊御門(おおいのみかど)」とも呼ばれ、藻壁門は「馬寮御門(うまつかさのみかど)」とも呼ばれた。[1]
郁芳門を入って右手(北側)に大炊寮(おおいりょう/諸国からの米穀の収納、諸司への食料の供給をつかさどった役所)、談天門を入って左右に左馬寮・右馬寮(うまりょう・さまりょう/馬の飼育・調教を担った役所)があった[5]ことによる呼び名であろうか。

この大路に沿って、東洞院川が東洞院大路から烏丸小路まで西流していたとされる。[6]

平安時代~鎌倉時代、この小路沿いは邸宅街の様相を呈していた。[7]
この大路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

平安時代後期に発展した白河では、この大路の延長線上にあたる街路が「大炊御門大路末」と呼ばれたようであり、大炊御門大路末を隔てて北側に白河北殿(しらかわきたどの)、南側に白河南殿(しらかわみなみどの)があった。[8]
『長秋記』元永二(1119)年七月二十日条には、大炊御門河原から浮橋を渡って白河殿の西門に入ったという記述があり、大炊御門大路末には鴨川に浮橋が架かっていたことがうかがえる。

『平家物語』によれば、嘉応二(1170)年十月十六日、堀川小路との交差点を西へ入ったところで、平重盛(たいらのしげもり)の次男資盛(すけもり)一行が摂政藤原基房(ふじわらのもとふさ)の牛車に出会った際、摂政の前では下馬するしきたりになっているのを知らず馬で駆け破って通ろうとしたところを基房の従者たちによって馬から引き摺り下ろされた。[9]

平成五(1993)年度の左京二条四坊の発掘調査[10]では、万里小路との交差点を東へ入った地点で、大炊御門大路の路面内で平安時代後期~鎌倉時代の掘立柱列や井戸が検出され、路面が宅地化された巷所の現象と考えられている。

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[11]際、この大路には油小路との交差点に篝屋が設置された。[12]
弘安二(1279)年、室町小路との交差点の北西角に一遍が聞名寺(もんみょうじ)を創建し、時宗の「大炊道場」として繁栄した。[13]

室町時代にはこの大路沿いに酒屋・土倉・湯屋などが点在し、応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、万里小路から堀川小路にかけて10軒の酒屋があったようである。[14]
万里小路との交差点の北東角には室町幕府の管領、畠山家の邸宅があった。[15]

文正二(1467)年一月、畠山政長(はたけやままさなが)が管領を罷免されたことに怒り、この邸宅に火を放ち、上御霊社(かみごりょうしゃ/上御霊神社)に布陣して応仁の乱が幕を開けた。[16]
乱は文明九(1477)年まで続き、近隣が戦場となったため、兵火による延焼も受けて、大宮大路以東のこの大路は荒廃した。[17]
乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この大路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。[18]

天正十八(1590)年、左京部分の通りは豊臣秀吉によって再開発され[17]、西堀川通(現在の堀川通)との交差点付近に竹屋が多かったため「竹屋町通」と呼ばれるようになった。[19]
大炊道場聞名寺は、安土桃山時代に豊臣秀吉によって寺町通との交差点付近の東側(現在の革堂行願寺の場所)へ移されたが、宝永五(1708)年に大火で焼失し、鴨川の東側(現在地)へ移転した。[20]

江戸時代の竹屋町通は、東は寺町通から西は堀川通までで、帷子・馬道具・鏡立・文台・花台・竹屋などの商家が軒を連ねた。[21]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として炉火箸(ろひばし)・政平包丁が挙げられている。[22]

江戸時代にも、旧称を踏襲して「大炊通」と呼ばれることもあった。[21]
なお、堀川通以西は、二条城の堀の外側であっても「二条城外廻り」として周辺の町家とは厳然と仕切られており、竹屋町通としては機能していなかったようである。[23][24]

宝永五(1708)年の大火後、革堂(こうどう)と称された行願寺(ぎょうがんじ)が寺町通と荒神口通との交差点の南東角から大炊道場聞名寺の跡地に移転した。[25]

大炊御門大路の右京部分に当たる通りは、「(旧)二条通」「嵯峨道」などと呼ばれるようになった。
天正十九(1591)年、豊臣秀吉によって現在の西土居通付近に「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた[26]当初は、この通りには出入り口は設けられたなかったと考えられるが、元禄十五(1702)年に描かれた『京都惣曲輪御土居絵図』によれば、江戸時代に入ってからこの通りにも御土居の出入り口が開かれたようである。
『太秦村行記』には、延宝九(1681)年、勘解由小路より二条城の西の二条通を西へ行ったとの記述がある[27]が、この二条通は旧二条通であると考えられる。

旧二条通は、現在は正式には「太子道」と呼ぶが、御前通から葛野大路通の一筋東にかけては一筋南の新道(新二条通)を太子道と呼ぶことが多い。

大正二(1913)年、進々堂(パン屋)の創業者・続木斉氏が広告に竹屋町の歌を掲載した。
「行人まれに静かな通り家の向い板塀にて平和を破る何もなし この横町の光栄はブールヴァールやアヴニューを越えてトメ来る人の胸にあり この道は地球を巡ぐりこの道は久遠に続く…」[28]
この雰囲気は現在も残っている。

[1] 『拾芥抄』(『故実叢書』第11巻増訂版、吉川弘文館ほか、1928年、386~389頁)

[2] 『清獬眼抄』(『羣書類從』第7輯、続群書類従完成会、1959年、601頁)

[3] 『拾芥抄』所収「西京図」

[4] 『貞信公記』天慶三(940)年三月七日条

[5] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、150頁

[6] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、24頁)

[7] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[8] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、64頁

[9] 後日、重盛の軍兵たちが基房の一行に報復し、この事件を「殿下騎合(てんがののりあい)」という。ただし、『玉葉』嘉応二(1170)年十月二十一日条では、基房の従者たちが資盛一行に乱暴狼藉を働いた点は共通しているが、日付は同年七月三日となっており、場所も堀川小路との交差点付近となっている。

[10] 堀内明博・内田好昭・久世康博・丸川義広「平安京左京二条四坊」『平成5年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1996年

[11] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[12] 塚本とも子「鎌倉時代篝屋制度の研究」『ヒストリア』第76号、1977年

[13] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1407頁

[14] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[15] 『康富記』嘉吉二(1442)年八月二十二日条・享徳三(1454)年八月二十九日条

[16] 『応仁記』巻第一

[17] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、288頁)

[18] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[19] 『京雀』(『新修京都叢書』第1巻、臨川書店、1993年、241頁)

[20] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、前掲書(京都府上巻)、1407頁

[21] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、21~22頁)

[22] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[23] (公財)京都市埋蔵文化財研究所『史跡旧二条離宮(二条城)・平安宮跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2016-19 2019年

[24] 96「二条御城外番場廻り番所附物共絵図」(谷直樹編『大工頭中井家建築指図集 中井家所蔵本』 思文閣出版、2003年、73頁)

[25] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、前掲書(京都府上巻)、584~585頁

[26] 尾下成敏・馬部隆弘・谷徹也『京都の中世史6 戦国乱世の都』 吉川弘文館、2021年、186頁

[27] 『太秦村行記』(『近畿遊覧誌稿』、淳風房、1910年、33頁)

[28] 森谷尅久監修『京都の大路小路 ビジュアルワイド』 小学館、2003年、135頁