平安京大内裏の東側に面する大路。
この大路に沿って、大宮川が一条大路から九条大路まで南流していた。
[4]
この川は大内裏の外堀的存在で、陽明門(ようめいもん)の北から大内裏にも引かれ、大内裏内の御溝水(みかわみず/雨露や塵芥を流しだす溝)とし、再び郁芳門(いくほうもん)の南から大宮川に放出され、二条大路以南を「芥川」と称したという。
[5]
昭和六十(1985)年度の左京八条二坊の立会調査
[6]では、平安時代中期から現代まで連綿と続く大宮大路の路面8面が検出されている。
平成四(1992)年度の左京三条一・二・四坊の発掘調査
[7]では、現在の押小路通との交差点付近で、平安時代中期後半(11世紀)代以前の大宮川が検出されている。
平安時代、この大路沿いの土御門大路から三条大路にかけて左衛門府(さえもんふ/大内裏の諸門の警護を担った役所)・修理職(しゅりしき/宮中の修理や造営をつかさどる役所)などの役所や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)などがあり、六条大路以北には邸宅も点在した。
[8]
一条大路~二条大路は大内裏の北側に面しており、この大路に面して、北から上東門(じょうとうもん/土御門大路との交差点の西側)・陽明門(近衛大路との交差点の西側)・待賢門(たいけんもん/中御門大路との交差点の西側)・郁芳門(大炊御門大路との交差点の西側)という4つの門があった。
[8]
北小路との交差点付近に平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち)、九条大路との交差点の北西角には東寺(とうじ)が置かれ、二条大路との交差点の南西角には神泉苑(しんせんえん/宮中に属する禁苑)が設けられた。
[8]
天長年間(824~834)、淳和天皇(じゅんなてんのう)の勅命により空海が神泉苑で祈雨(雨乞い)を行ったといい
[9][10]、神泉苑は後に東寺管下の祈雨道場となったようである。
[11]
貞観五(863)年には神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ/非業の死や不慮の死を遂げた者への鎮魂のための祭礼)が行われ
[12]、これは後の祇園会(ぎおんえ/祇園祭)のルーツとなった。
『貞観儀式』によれば、大嘗会(だいじょうえ/天皇の皇位継承に伴って行われる儀礼、大嘗祭[だいじょうさい])では、神供物や祭器具等を携えた悠紀(ゆき)・主基(すき)両国
[13]の行列は大内裏の北方(北野)の斎場を出発して大内裏の朝堂院に設けられた大嘗宮に向かうが、悠紀国の行列は大宮大路を南下し、七条大路に至って西行していた。
[14]
天延二(974)年、祇園会の神輿渡御(みこしとぎょ)
[15]が初めて行われ、これ以後、継続して行われるようになったようである。
[16]
康和五(1103)年以降、三条大路との交差点は御旅所から祇園社(八坂神社)へ還る還幸の際に大政所御旅所(おおまんどころおたびしょ/高辻小路と烏丸小路との交差点の北東角)を出発した2基の神輿と少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ/冷泉小路と東洞院大路との交差点の北西角)を出発した1基の神輿が合流する地点であり、祭礼の行列を点検する場所であったことから「列見の辻(れっけんのつじ)」と呼ばれた。
[17][18][19]
土御門大路との交差点の東には、この大路をはさんで北側に織部司(おりべのつかさ/織物や染物をつかさどった役所)、南側に織部町(織部司の下級役人などの宿所)があった
[20]が、律令制の崩壊に伴う織部司の衰退後、鎌倉時代前期には大宿直(おおとのい/土御門大路の北側、壬生大路の東側の大内裏内)に織手たちの集住
[21]がみられるようになった。
大宿直は大舎人(おおとねり/交代で宮中に宿直し、雑用などを担った下級役人)の詰所であり
[22]、織手たちは大舎人座を組織して織物生産を行うようになり
[23]、これらはやがて「大舎人の綾」「大宮の絹」などと呼ばれて京都の名産とされ、西陣織のルーツとなった。
[24]
同時期には、八条大路との交差点の北西角に平清盛の西八条第(にしはちじょうてい)があり、六町以上の広大な敷地を有していた。
[25]
官設市場であった東市は、律令制の崩壊に伴って次第に衰退していき、平安時代末期にはかなり寂れていたとみられる
[26]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
鎌倉時代、この大路沿いは邸宅街の様相を呈していたとみられている。
[27]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[28]際、この大路には京内だけで11箇所(一条大路・中御門大路・春日小路・二条大路・三条大路・四条大路・七条大路・梅小路・針小路・唐橋(九条坊門)小路・信濃小路との各交差点)に篝屋が設置された
[29][30][31]。
この数は他の街路と比べても群を抜いており、この大路がかなり重要視されたことがうかがえる。
『太平記』巻第八によれば、元弘三/正慶二(1333)年に千種忠顕(ちくさただあき/鎌倉時代末期~南北朝時代の公家、後醍醐天皇の近臣)が六波羅探題(ろくはらたんだい/鎌倉幕府の出先機関)を攻める際、三条大路から九条大路にかけてこの大路沿いに塀を築き、櫓を設けて射手を配置し、小路ごとに1,000~2,000騎の軍勢を配置したというが、忠顕の軍勢の進攻を防御する「一条・二条ノ口」は、当時の京の西の出入り口にあたる大宮大路と一条大路・二条大路との交差点に存在したと考えられている。
[31]
このように、六波羅探題攻めや南北朝時代の争乱ではこの大路がしばしば戦場や軍勢の通路となったようである。
大嘗会の行列の経路は南北朝時代~室町時代、永徳三(1383)年の後小松天皇、応永二十二(1415)年の称光天皇、永享二(1430)年の後花園天皇の頃には短縮され、悠紀国の行列は大宮大路南下→四条大路西行となったようである。
[32][33]
室町時代にはこの大路沿いに、一条大路から六角小路にかけて9軒の酒屋があったという。
[34]
文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱では、一条大宮(一条大路との交差点)の北東角に西軍の細川勝久(ほそかわかつひさ)の邸宅があったため、応仁元(1467)年五月には一条大宮や一条猪熊(一条大路と猪熊[猪隈]小路との交差点)を中心とした地域で2日間に渡って激戦が繰り広げられた(「一条大宮の戦い」)。
[35]
戦火によって南は二条大路まで延焼したという。
[36]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続いてこの小路を荒廃させ
[37]、乱後は上京・下京の両市街の外に位置した
[38]が、道路のみは通じていたという
[37]。
応仁の乱によって祇園会も33年間の中断を余儀なくされた
[39]が、明応九(1500)年に再興された
[40]。
大宮川は、鎌倉時代以降に四条大路との交差点で向きを変えて東流して堀川に合流するルートに変わり、戦国時代には消滅したと考えられている。
[4]
慶長八(1603)年の二条城築城
[41]により、大宮通の竹屋町通~押小路通が消滅した。
七条通と千本通の交差点の東にあった御土居の出入り口から七条大宮(七条通との交差点)付近にかけては「丹波口」と呼ばれ、大宮通は丹波口から二条城への南北幹線道路となった。
[27]
二条城の北側では、この通りの東側に沿って所司代上屋敷が設けられ、元禄十六(1703)年以降の上屋敷の拡張によってこの通りの丸太町通~竹屋町通が消滅した。
[42]
江戸時代には市街のほぼ西限の通りとなり、この通り沿いに板木屋・葡萄屋・米大豆・雑穀物・丹波表などの商家があった。
[43]
丹波口付近には、大宮通に沿って丹波問屋(丹波から運んできた物資を取引する問屋)が集中したようである。
[44]
北の始点は『京羽二重』では今宮神社の御旅所町を下がった地点
[43]、『京町鑑』では大宮権現(現在の北区にある久我神社[こがじんじゃ])のある紫竹大宮の森とするが、今宮神社の御旅所で突き当たり、西に折れて現在の大徳寺通に連なって洛北・鷹峯(たかがみね)へ通じていた。
[45][46]
南は東寺の東南角(九条通)まで通じていた。
[45]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として葡萄・丹後織絹紬が挙げられている。
[47]
江戸時代の稲荷祭では、四月の還幸祭で大宮通の九条坊門通(現在の東寺道)→九条通/九条通→松原通が神輿の巡行路となった。
[48]
明治時代中期までは、一条通~下長者町通では現在の元大宮通が大宮通であったが、中立売通~下長者町通で一筋西にあった「和泉町通(いずみまちどおり)」の延長線上(一条通~中立売通)に「新大宮通」と呼ばれる新道を開き、やがて和泉町通と新大宮通を合わせて大宮通と呼ぶようになったようである。
[49]
また、今宮神社の御旅所で突き当たっていた北部では、御旅所の鳥居は南向きに建っていたが、昭和五(1930)年に大宮通が北に延伸され、鳥居は現在地に移された。
[46]
明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業によって大宮通の四条通~七条通が拡幅され
[50]、大正元(1912)年に京都市電大宮線四条大宮~七条大宮が開業し、四条通以南に電車が走った。
市電大宮線は最終的には九条大宮(九条通との交差点)まで延長されたが、昭和四十七(1972)年に全線廃止された。
市電が走っていた名残で四条通以南は広い通りとなっているが、四条通以北は一方通行の狭い通りである。
平成十四(2002)年には大宮大橋が開通し、南は伏見区まで延長された。