この小路沿いには公家の邸宅や、堀川小路との交差点の北西角に木工寮(もくりょう/宮殿の造営・修理などをつかさどった役所)
[5]、朱雀大路との交差点の西側に穀倉院(こくそういん/朝廷の食料庫)があり
[6]、平安時代~南北朝時代はこの小路の左京部分は邸宅街の様相を呈していた。
平成五(1993)年度の右京三条一坊の試掘調査
[7]では、西坊城小路との交差点付近で西坊城小路及び押小路の推定位置で遺構が検出されなかったことから、穀倉院には押小路が敷設されなかった可能性が高いと考えられている。
烏丸小路との交差点部分と同交差点を西に入った地点での発掘調査
[8]では、押小路の路面推定地で天文法華の乱の時期(天文五(1536)年前後)の堀が検出されたが、押小路の遺構は検出されなかった。
調査地点付近では平安時代を含め、押小路は敷設されていなかったとみられ、東三条殿(ひがしさんじょうどの)、閑院(かんいん)、堀川院(ほりかわいん)と押小路を遮る二町規模の邸宅や神泉苑(しんせんえん)、大学寮(だいがくりょう)、穀倉院(こくそういん)といった四町規模の大型施設が続き、東西に往来する機能を果たしえない道路であったと考えられている。
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、平成十一(1999)~平成十二(2000)年度の右京三条二坊十五・十六町の発掘調査
[9]では、この小路の北側に沿う平安時代後期の建物群が検出されている。
南北朝時代には足利尊氏の邸宅が万里小路との交差点の北西角にあったと推定されている。
[10]
建武新政権期には東京極大路との交差点の北西角に「押小路京極役所」が置かれ、朝廷の大事を扱う記録所や雑訴決断所(訴訟機関)の窓口業務を担ったようである。
[11]
室町時代には中心街から外れていたため、商工業はさほど発展しなかったものの、室町小路から大宮大路にかけて6軒の酒屋があった
[12]ようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、応仁元(1467)年九月に西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)の陣であった等持寺(高倉小路との交差点の東側)に東軍の武田信賢(たけだのぶかた)勢が矢を射掛ける
[13]など戦場となることもあり、この大路の左京部分は荒廃した
[14]。
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は高倉小路~室町小路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置したが、実質的な市街はほぼ姉小路以南であった。
[15]
押小路通は天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発された。
[14]
東は寺町通から西は烏丸通までで
[16]、烏丸通以西には通じていなかったが、宝永五(1708)に起こった宝永の大火後に油小路通まで開通、油小路通~堀川通は明治八(1875)年に開通したという。
[14]
烏丸通以西に通じていなかったのは、近衛天皇(このえてんのう/平安時代後期の天皇)が病気の時、東三条の森から鵺(ぬえ/化け物)が出て御所へ向かう通路となっていたのを忌み嫌って塞いだためであるという説があるが、誤りのようである。
[17]
昭和五十六(1981)年度の左京三条一坊の発掘調査
[18]によれば、千本通との交差点の北東とその周辺は、慶長八(1603)年の二条城築城以降も田園風景をとどめていたが、この地に西町奉行所が開設された寛文年間(1661~72)頃に武家屋敷街に変貌したようである。
ただし、堀川通以西は二条城の堀の外側であっても「二条城外廻り」として周辺とは一線を画しており、自由に往来することはできなかったとみられる。
[19]
江戸時代には、この通り沿いには職人が多く、古道具屋・畳屋・砥石屋などがあった。
[16]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として針口・砥粉が挙げられている。
[20]
明治三十五(1902)年から明治四十五(1912)年にかけて、堀川通~千本通を京都電気鉄道御池線が走った。
現在の押小路通は、堀川通以東は狭くてあまり目立たない通りであるが、京電が走っていた名残で堀川通以西は広い通りであり、地下を京都市営地下鉄東西線が通っている。