平安京の正門。
正面七間、奥行二間
[1]、東西10丈6尺(約32m)、南北2丈6尺(約8m)の二重閣の門で、門の外の溝には石橋が架けられていた。
[2]であった。
桓武天皇は巡幸中に建設中の羅城門を見て、工匠(たくみ/大工)に高さを5寸減らすように命じたものの、後日再び羅城門を見てこれを後悔したが、工匠は実際には命令に従っていなかったため事なきを得たという話が伝わっている。
[3]
羅城門は弘仁七(816)年に大風により倒壊し
[4]、再建されるも天元三(980)年に暴風雨により再び倒壊し
[5]、以後再建されることはなかった。
『貞信公記』承平二(932)年十一月二十日条によれば、羅城門では羅城祭が行われたという。
源頼光(みなもとのよりみつ)の従者であった渡辺綱(わたなべのつな)がこの門の楼上(楼閣の上)からのびてきた鬼の片腕を斬り落としたという伝説
[6]や、門の楼上で鬼に演奏されていたとされる琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を源博雅(みなもとのひろまさ/平安時代中期の公家)が持ち帰った説話
[7]、門の楼上に引き取り手のない死体が多数捨て置かれ、死人の髪を抜き取る老婆がいたという説話
[8]など様々な逸話があり、倒壊以前から鬼や盗賊の棲家といわれるなど荒廃していたようである。
なお、『小右記』治安三(1033)年六月十一日条には、藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)の堂礎を羅城門の礎石から取った旨の記述があり、この時には礎石がかろうじて残っている程度であったと考えられている。
東寺の宝物館に安置されている兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)は、元は羅城門の楼閣の上に安置されていたものと伝えられている。
[9]
芥川龍之介の『羅生門』は、前述の『今昔物語集』の死人の髪を抜き取る老婆の説話を題材に書かれている。
[1] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、303頁
[2] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、12~13頁)
[3] 『寛平御遺誡』(『羣書類従』第27輯(雑部第3(巻第471-488))、群書類従刊行会、1955年、136頁)
[4] 『日本紀略』弘仁七(816)年八月十六日条
[5] 『日本紀略』天元三(980)年七月九日条
[6] 室町時代の謡曲『羅生門』ほか
[7] 『今昔物語集』巻二十四
[8] 『今昔物語集』巻二十九
[9] 江戸時代には東寺塔頭の観音堂にあった。 『雍州府志』(『続々群書類従』第8、続群書類従完成会、1970年、266頁)