大炊御門大路と二条大路の中間に位置する小路。
冷然院(れいぜんいん/大宮大路との交差点の東側にあった四町規模の邸宅)が冷泉院(れいぜいいん)に改称されたのは天暦八(954)年頃である
[1]から、「冷泉小路」の名はそれ以降に付けられたものと考えられる。
この小路に沿って、東洞院川が烏丸小路から室町小路まで西流していたとされる。
[4]
平成三(1991)年度の右京二条四坊の発掘調査
[5]では、無差小路との交差点を西へ入った地点で平安京造営時かそれに近い時期に造られたものと推定される冷泉小路北側溝が検出された。
これによって、平安京の造営は京北部でも西端まで及んでいたことが明らかになった。
東洞院大路との交差点の北西角には、『枕草子』一六八段にみえるように名井・名泉として知られた「少将井(しょうしょうい)」があり、保延二(1136)年に祇園社(八坂神社)の御旅所
[6]の敷地として寄付され、「少将井御旅所」と呼ぶようになった
[7]というが、永久五(1117)年には既にこの地に「祇園別宮」としての「少将井」があったようである
[8]。
[9]
平安時代から鎌倉時代にかけて、この小路の左京部分は邸宅街の様相を呈していた。
[10]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
元弘三(1333)年、後醍醐天皇が二条富小路内裏に入り、そこが建武の新政の中心政庁となった。
[11]
二条富小路内裏は富小路との交差点の南東角にあったと推定されているが、建武三(1336)年に戦火によって焼失したとみられている。
[11]
室町時代には、東京極大路から朱雀大路にかけて11軒の酒屋があった
[12]ようであるが、文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、乱の序盤に近隣が戦場となったため、兵火による延焼
[13]も受けて左京部分のこの小路は荒廃したとみられ、乱後は上京・下京の両市街の外に位置した
[14]。
祇園社の少将井御旅所は、長らく場所の変動がなく、戦国時代の京都の景観を描いたとされる『歴博甲本洛中洛外図屏風』『上杉本洛中洛外図屏風』にも描かれている。
冷泉小路に面して朱の鳥居を構えているが、周囲には町家はなく耕作地が広がっており、江戸時代の地誌『京雀』にあるように人家がまばらであった
[15]ことを裏付けている。
御旅所は、天正十九(1591)年に四条通と寺町通との交差点の東(現在地)に移転し、高辻通と烏丸通との交差点の北東角にあった大政所(おおまんどころ)御旅所と統合された。
[16][17][18]
この通りの辺りに蛭子社(えびすのやしろ)があったため、西洞院川の支流を「恵比須川(えびすがわ)」といったことから、「夷川通」と呼ばれるようになったという。
[19]
「恵比須川」
[20]「夷顔」
[21]と記載する文献もある。
慶長八(1603)年の二条城築城により、堀川通以西の通りは消滅した。
江戸時代の夷川通は、東は寺町通から西は堀川通までで、通り沿いに昆布・菓子・小刀剃刀鍛冶・針金細工などの商家が軒を連ねた。
[22]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として南蛮菓子・ミスカラが挙げられている。
[23]
現在、この通りの寺町通~烏丸通は家具の専門店街として著名である。
家具店に混じって陶磁器店などもある。