その名のとおり、六角堂の前を東西に走る小路。
『元亨釈書』には、平安京造営の際に六角堂が東西の小路の建設予定地にあたり、勅使(天皇の使者)が動いてくれるよう祈願すると北へ5丈(約15m)ほど動いたという話があるが、六角堂の実際の創建は平安時代中期頃と考えられている[1]

平成四(1992)年度の左京四条一坊の発掘調査[2]では、朱雀大路との交差点を東へ入った地点で六角大路北側溝・南側溝が検出された。
側溝は9世紀前半に造られて9世紀中頃に埋まったようであり、12世紀中頃に整地されて六角小路が再構築された際には、路面幅は4mに狭くなっていたことが判明した。

この小路の左京部分は、平安時代~鎌倉時代は邸宅街の様相を呈していたようである。[3]
『明月記』元久二(1205)年閏七月二十六日条・『吾妻鏡』同日条によれば、同日に東洞院大路との交差点付近にあった平賀朝雅(ひらがともまさ/鎌倉幕府の御家人)の邸宅が鎌倉幕府に命じられた御家人たちによって襲撃され、炎上した。

六角堂は、『百錬抄』承安二年五月十二日条によれば京中の人々から崇敬を集め、『親鸞聖人絵伝』によれば親鸞(しんらん/浄土真宗の宗祖)が参籠することもあったようである。

鎌倉時代以降は六角町(町小路との交差点)を中心とした商業街として発展した。[3]
六角町には糸座・紺座・生魚座が置かれ、中でも生魚座は江戸時代に錦小路に移されるまで続いた。[3]
鎌倉時代には六角町の生魚供御人の存在が確認でき、全員女性であったという。[4]

応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、高倉小路から大宮大路にかけて9軒の酒屋があったようである。[5]
永享五(1433)年、櫛笥小路との交差点の北東角の地に油小路の高辻小路~五条坊門小路付近にあった本応寺が移転し、寺号を「本能寺」と改めた。[6]

この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
昭和五十六(1981)年度の右京四条二坊の立会調査[7]では、現在の京福電鉄踏切から西大路通東側歩道まで約100m続き、さらに西へ延びる六角小路上の流路が検出された。
平安時代のいつの頃からか、西堀川の水を佐比川(道祖大路に沿って流れていたとされる川)に流すために六角小路の西堀川小路~道祖大路に川を掘ったと考えられている。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させた。[8]
乱の末期の文明六(1474)年には、西軍の大内政弘(おおうちまさひろ)が油小路との交差点付近に砦を構えたという。[9]

明応年間(1492~1501)頃までにこの小路は一応の復興がなされ、高倉小路~西洞院大路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、概ね東洞院大路~西洞院大路が下京の市街を形成した。[10]
六角堂は、町衆たちによる自治の中心的な役割を果たした。[11]

本能寺は、天文五(1536)年の天文法華の乱で焼き討ちにされて堺へ避難した[12]が、天文十一(1542)年に後奈良天皇の勅許によって京への帰還を許され、油小路との交差点の南東角に移転したと推定されており[13]、天文十六(1547)年より再建が行われたようである[14]
元亀元(1570)年、織田信長が上洛して本能寺に入り[15]、天正八(1580)年、村井貞勝(むらいさだかつ/織田信長の家臣)に命じて本能寺城としての普請(工事)を行った[14][16]
天正十(1582)年、「本能寺の変」が起こって信長は自害に追い込まれ、本能寺(城)は焼失した。[17]

本能寺は天正十五(1587)年に秀吉によって現在地(寺町通と御池通との交差点を下がった場所)へ移転させられた[18]が、現在も通り沿いの「本能寺町」という町名が名残をとどめている。
天正十八(1590)年、六角通は豊臣秀吉によって再開発された。[8]

江戸時代の六角通は、東は寺町通から神泉苑通の西まで[19]で、守袋・頭布・絹布・表具・木綿・旅籠屋・表具屋・染物などの商家があったようである。[20]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として調緒(しらべお)・頭巾・木綿袴・自在・位牌・銚子が挙げられている。[21]

寺町通との交差点の東側に誓願寺(せいがんじ)があるため、「誓願寺通」とも呼ばれた。[22]
猪熊通との交差点には聚楽第(じゅらくてい/安土桃山時代にあった豊臣秀吉・秀次の邸宅)から移築された円柱の門があったが、天明八(1788)年正月の大火で焼失したという。[23]

宝永六(1709)年、宝永の大火で焼失した獄舎が神泉苑通との交差点の西に移転し、六角獄舎と呼ばれた。[24]
日本で最初の人体解剖が行なわれた地[25]でもあり、「近代医学の礎の地」ともなっている。

現在の六角通は、西へ行くほど狭い通りとなり、矢城通以西は車1台通るのがやっとというほど狭い。
御前通以西は歩道も設けられ、比較的広い通りとなっている。
六角堂(頂法寺)は現在も同じ場所にあり、生け花発祥の地としても知られている。

[1] 京都市編『史料京都の歴史』第9巻(中京区) 平凡社、1985年、19頁

[2] 南孝雄・鈴木久男・清藤玲子「平安京左京四条一坊」『平成4年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1995年

[3] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[4] 京都市編、前掲書(中京区)、329頁

[5] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[6] 京都市編、前掲書(中京区)、302~303頁

[7] 百瀬正恒「右京四条二坊」『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要(試掘・立会調査編)』(財)京都市埋蔵文化財研究所 1983年

[8] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、294頁)

[9] 京都市編『京都の歴史3』 学芸書林、1968年、348頁

[10] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[11] 京都市編、前掲書(中京区)、34頁

[12] 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、738~739頁

[13] ただし、天正十五(1587)年に豊臣秀吉によって現在地(寺町通と御池通との交差点を下がった場所)へ移転させられるまで櫛笥小路との交差点の北東角に存在した可能性もあるという。 古川元也「中世都市研究としての天文法華の乱 描かれた洛中法華教団寺院をめぐって」『国立歴史民俗博物館研究報告』第180集、国立歴史民俗博物館、2014年

[14] 古代文化調査会『本能寺城跡―平安京左京四条二坊十五町―』 2012年

[15] 『言継卿記』元亀元(1570)年八月二十三日条

[16] 『信長公記』巻第十三

[17] 京都市編、前掲書(中京区)、312~313頁

[18] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1293~1294頁

[19] 『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』

[20] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、23頁)

[21] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[22] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、271~272頁)

[23] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第20巻、臨川書店、1976年、46頁)

[24] 『京都御役所向大概覚書』上巻 清文堂出版、1973年、223~224頁

[25] 京都市編、前掲書(中京区)、295頁