平安時代、この大路沿いの町小路以西は源融(みなもとのとおる/嵯峨天皇の皇子)の河原院(かわらのいん/万里小路との交差点の北東角)をはじめとする邸宅街であった。[2]
平安時代中期の大中臣輔親(おおなかとみのすけちか/伊勢神宮の祭主)の六条院(室町小路との交差点の南東角)には天橋立を模した池[3]が造られた。[2]
東端の河原は「六条河原(ろくじょうがわら)」と呼ばれ、罪人の処刑地であった。

平安時代後期には、白河天皇(→上皇→法皇)によって、六条内裏(東洞院大路との交差点の北東角)の造営や中院(なかのいん/室町小路との交差点の北東角)を譲位後の御所として利用するなど、左京六条域の再開発が進んだ。[2]
白河天皇の曾孫にあたる後白河天皇(→上皇→法皇)も六条殿(西洞院大路との交差点の北西角)を譲位後の御所として利用した。[2]

堀川小路との交差点の付近には、『保元物語』『平治物語』『平家物語』にもたびたび登場する源氏累代の邸宅「六条堀川館」があった。[4]
平安時代末期には、東洞院大路との交差点の南東角に平時忠(たいらのときただ)の邸宅、万里小路との交差点の南東角に平資盛(たいらのすけもり)の邸宅があった。[5]

『平家物語』によれば、寿永三(1184)年二月十四日、奈良を焼き打ちにした平重衡(たいらのしげひら)がこの大路を引き回されたという。
また、元暦二(1185)年四月二日には、壇ノ浦で生け捕りにされた平家の者たちがこの大路を引き回され、後白河法皇は六条東洞院(東洞院大路との交差点)でこれを見物したという。
後白河法皇は、建久三(1192)年三月十三日に六条殿で波乱の生涯を閉じている。[6]

鎌倉時代後期には、河原院の跡地に時宗の歓喜光寺(かんぎこうじ)」が建立され、「六条道場」と呼ばれて繁栄した。[7][8]
貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。[9]

南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)には「六条面堀河西」とあり[10]、堀川小路との交差点の西が耕作地となっていたことがうかがえるが、室町時代には高倉小路から猪隈小路にかけて6軒の酒屋があった[11]という。
平成十七(2005)年度の右京七条一坊九町の発掘調査[12]では、皇嘉門大路との交差点を西に入った地点で鎌倉時代~室町時代の六条大路の路面が検出され、応仁の乱以前は右京でもこの大路が道路として存続していたようである。

『庭訓往来』には、京都名産として「六条の染物」が挙げられている。

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの大路を荒廃させ[13]、乱後は下京の市街の外に位置した[14]ため、この大路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
本國寺は、天文五(1536)年に起こった天文法華の乱により焼失したが、天文十六(1547)年に同地に再建された。[9]

天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[13]

慶長七(1602)年、北は五条(六条坊門)通、南は六条通、東は室町通、西は西洞院通で囲まれた地域に二条通と柳馬場通の交差点付近から遊郭が移され、「六条三筋町(ろくじょうみすじまち/六条柳町)」と呼ばれた。[15]
この遊郭は、寛永十八(1641)年に七条通の北方、千本通の東側(いわゆる島原)に移転した。[15]

江戸時代の六条通は東は下寺町通から西は醒ヶ井通までで[16]、下魚棚通から魚市が移されたため「魚棚通(うおのたなどおり)」と呼ばれた[13]
西本願寺(現在の正式名称は本願寺)が天正十九(1591)年、東本願寺(現在の正式名称は真宗本廟)が慶長七(1602)年にそれぞれ現在地に創建されたため、通り沿い(高倉通以西)には東西の本願寺の寺内町が成立した。[17]

当時から、東洞院通と新町通で通りがずれており、東部を下坂、西部を鼠辻子(ねずみのずし)/鼠ヶ小路(ねずみがこうじ)と呼んだ。[7][18]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として仏具・燈籠細工・梅汁(染物用)・山川酒・飯鮨(いいずし)・煎餅が挙げられている。[19]

大宮通以西の通りは、江戸時代には「丹波街道(丹波海道)」もしくは「丹波口通」と呼ばれたようである。[18]

魚市は明治時代に入って衰退し、有名無実の状態となっていたようであるが[13]、昭和三(1928)年に再び六条通に改称[20]されるまで魚棚通と呼ばれた。

第二次世界大戦中には、六条通の南側(東洞院通~烏丸通)と延長線上河原町通までの建物が建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)の対象となって撤去された。[21]
戦後、疎開跡地を利用して東洞院通~烏丸通の道路の拡幅が行われ、東洞院通以東では、疎開跡地に通された新しい道路が六条通とされた。
東洞院通以東では一筋北に旧六条通があり、こちらの方が平安京の六条大路に近い。

六条通は、平安京の大路に端を発する「条」の付く通りの中で最も目立たない通りである。
烏丸通~西中筋通はとても狭い通りで、歩行者・自転車専用道路となっている。

本圀寺(江戸時代に徳川光圀[とくがわみつくに/水戸黄門]の庇護を受けて改称[22])は昭和四十七(1972)年に山科区へ移転した。[9]

[1] 『拾芥抄』所収「西京図」

[2] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、274~283・287~290頁

[3] 『山城名勝志』によれば、六条院の池は東本願寺が開かれた後も残っていたという。

[4] 左京六条二坊十二町(堀川小路との交差点の北東角)にあったと推定されている。 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、16頁

[5] 山田邦和『京都の中世史7 変貌する中世都市京都』 吉川弘文館、2023年、53頁

[6] 『玉葉』建久三(1192)年三月十三日条

[7] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、1496頁

[8] その後、複数回の移転を経て、天正年間(1573~92)に豊臣秀吉によって四条道場金蓮寺の北側(四条通と寺町通の交差点を上がった場所、東側)に移転させられた。明治時代以降も2度移転し、現在は山科区に所在している。 佐和隆研ほか編『京都大事典』 淡交社、1984年、216頁

[9] 上村和直「平安京左京六条二坊五町・猪熊殿・本圀寺跡」『昭和54年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2012年

[10] 『東寺百合文書』ヱ函/92/8/

[11] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[12] (財)京都市埋蔵文化財研究所『平安京右京七条一坊九町跡』京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報2005-12 2006年

[13] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、304頁)

[14] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[15] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、299~300・458~459頁

[16] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[17] 京都市編、前掲書(下京区)、12~16頁

[18] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、229・231・289頁)

[19] 京都市編『史料京都の歴史』第4巻(市街・生業) 平凡社、1981年、438~440頁

[20] 昭和三(1928)年5月24日付け京都市告示第252号

[21] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、36~40頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」

[22] 京都市編、前掲書(下京区)、265頁