朱雀大路と西京極大路の中間に位置する大路。
平安時代、この大路沿いには中御門大路との交差点の南東角に民部省(みんぶしょう/戸籍や租税など民生一般を担った役所)の厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられていた下級役人などの宿所)
[7]、四条大路との交差点の北東角に淳和院(淳和天皇[じゅんなてんのう]の譲位後の御所)
[8]があった。
この大路に沿って、佐比川が一条大路から九条大路まで南流していたとされる。
[9]
『日本後紀』弘仁十四(823)年十月二十四日条によれば、同日、佐比川で淳和天皇が禊(みそぎ)をしたという。
『三代実録』貞観十一(870)年十二月八日条によれば、九条大路との交差点には「佐比大路南極橋」という橋があり、交差点の南側は「佐比河原」と呼ばれた葬送の地
[10]で、「佐比寺」という寺院などもあったようである。
佐比大路南極橋は佐比川が屈折する地点にあるうえに、棺を運ぶ人々が渡るのを躊躇するほど脆弱で甚だ危険であったため、補修を行ったようである。
『中古京師内外地図』によれば、九条大路に沿って西京極川から西堀川まで流れる水路と佐比川が九条大路との交差点で合流しており、佐比大路南極橋はこの合流地点にあった橋であると考えられる。
『北野縁起』によれば、天慶五(942)年、右京七条二坊十三町(七条大路との交差点の北東)に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ/綾子・奇子とも)という女性に、天神(菅原道真[すがわらのみちざね]の神号)から北野に社殿を構えて自分を祀るようにとの託宣(お告げ)があった。
[8][11]
しかし、身分が低く貧しかった文子はやむを得ず自邸内に小さな祠を建てて天神を祀ったが、天暦元(947)年に北野に祠を建ててこれを移した。
[8][11]
これが北野天満宮(北野社)の起源といわれている。
『小右記』天元五(982)年四月三十日条には、同日早朝、大相府(太政大臣の藤原頼忠[ふじわらのよりただ])がこの大路で競馬(くらべうま)を催した旨の記述があり、少なくともその時点では道路として機能していたことが分かる。
競馬を催せるほどの人通りの少ない大路であったとの見方もある
[12]が、早朝ということを考えれば、そこまで断定することはできないであろう。
発掘調査
[13][14](後述)によって、平安時代中期以降、この大路の路面部分を開削して河川が造られたことが判明した。
この河川は文献に登場する佐比川とは別のものと考えられるが、河川の開削によって道路としての機能を喪失したとまでは言い切れないようである。
河川は、北は勘解由小路
[15]から南は七条坊門小路付近まで延長2km以上にわたって確認されており
[14]、川幅は広いところで30m近く、狭いところでも4~7mに及んでいる
[15]。
西院とも呼ばれた淳和院や道祖大路の名などから、平安時代中期以降、四条大路との交差点を中心とする一帯を次第に「西院(さいいん/さい)」と呼ぶようになった。
[16]
平安時代後期には、三条大路から高辻小路にかけて「小泉荘(こいずみのしょう)」(摂関家の荘園)が形成された
[2]が、こちらも「西院庄」「西院小泉庄」とも呼ばれた
[17]。
南北朝時代の紛失状(土地の権利書類の正文[正本]を紛失した際に代わりとする文書)には「佐妻牛面道祖大路」とあり
[18]、当該時期には道祖大路沿いは耕作地になっていたとみられる。
道祖大路が当該時期に当該地点で街路として機能していたかどうかは不明であるが、土地の位置を示す座標としてはこの頃まで使用されていたようである。
天正十九(1591)年、平安京の街路でいえば概ね鷹司小路~春日小路のほぼ道祖大路上もしくはその付近に、豊臣秀吉によって「御土居」(おどい/京都市街を囲った土塁と堀)が築かれた。
[19][20]
三条通から松原通にかけては、「西院村(さいいんむら)」と呼ばれる農村となった。
江戸時代から昭和時代初頭にかけて、三条通の南~松原通の道祖大路にあたる通りは「丹波街道」と呼ばれ、四条通・松原通と並んで西院村の中心的道路であった。
[21]
天正十(1582)年六月二日早朝、松原通の南にあった馬塚近くで、明智光秀軍の先鋒が通報を恐れてか百姓を斬り捨てて、本能寺を目指して丹波街道を駆け上がっていったとの伝承がある。
[22]
元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)の折には、長州軍の兵士が松原通から丹波街道へ三々五々落ち延びていったという。
[23]
明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、条坊復元線のずれを考慮すると、道祖大路が概ね一条大路~大炊御門大路・三条大路~八条大路で小道や水路として明治時代まで踏襲されていたことが分かる。
佐比川は、昭和時代初頭まで西院村の丹波街道(現・佐井通)沿いを南流しており、田畑の用水になっていたという。
[24]
現在の佐井通は、西院村から御所内村へ至る農道を踏襲し
[25]、明治時代以降に途切れ途切れの小道をつなげてできた通りである。
昭和時代初期までは、旧二条通以北を「船橋川通」、七条通~八条通を「御所ノ内通」と呼んだが、昭和三(1928)年に「佐井通」に改称されたようである。
[26]
第二次世界大戦中の昭和二十(1945)年3月19日、高辻通及び五条通との交差点付近で小規模な空襲があったが、死者は出なかった。
[27]
四条通との交差点を上がったところにある春日神社には、淳和院の礎石が残っている。
別称「春日通」はこの春日神社によるものである。