昭和六十一(1986)年度の左京七条二坊の発掘調査[8]では、現在の堀川通との交差点で平安時代前期の左女牛小路南側溝が検出されたが、想定位置より約2.4m北にずれていたことが判明した。

平安時代、この小路沿いには平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち/猪隈小路との交差点の南側)・西市(にしのいち/西靱負小路との交差点の南側)、公家の邸宅などがあった。[9]
西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようであり[10]、この小路の右京部分も、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。

平安時代末期には、平時忠(たいらのときただ)の邸宅(東洞院大路との交差点の北東角)[11]や平資盛(たいらのすけもり)の邸宅(万里小路との交差点の北東角)[12]など、平家の邸宅があった。
この時期には、東市もかなり寂れていたとみられる[13]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。

鎌倉時代以降、左女牛井付近に平家琵琶の法師が集住したという。[14]
貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。[15]

文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ[16]、乱後は下京の市街の外に位置した[17]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。[16]

天正十九(1591)年、醒井通との交差点の南西に西本願寺(現在の正式名称は本願寺)が創建され[18]、それまでの本國寺の敷地の一部が西本願寺の敷地となった。

寛永十八(1641)年、現在の大門通~千本通を中心とした地域に遊郭が移され、その移転の様子が島原の乱のようだといわれたことから「島原」と呼ばれた。[19]
大門通との交差点の西側には、島原の東側の出入り口であった島原大門が現存する。

江戸時代の地誌『京町鑑』には上珠数屋町通が「佐女牛通」として記載されている[20]が、ずれが大きいため、平安京の左女牛小路ににあたる通りとはいえない。
東西の本願寺の間(新町通~醒井通[現在の堀川通])は当初は「花屋町筋」と呼んだが、通り沿いの町の成立に伴って「花屋町通」に呼び名が変化したようである。[18][20][21]

文久二(1862)年に描かれた『京都指掌図 文久改正』を見ると、上ノ口通が現在と同じ区間で存在していたことが分かる。

花屋町通は、明治十五(1882)年に堀川通~大宮通が開通し、東は新町通から西は千本通の一筋東まで曲折しながら至る通りとなった。[16]

第二次世界大戦中の建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)によって、花屋町通の一筋北にあった万年寺通(まんねんじどおり)の延長線上(新町通~堀川通)に新道を開き[22]、花屋町通とつないで全体を花屋町通とした。
これによって、新町通~堀川通の本来の花屋町通は「旧花屋町通」となった。
JR山陰本線(嵯峨野線)以西の花屋町通は、戦後に都市計画道路として建設された[23]ため、直線的に延びている。

東西の本願寺付近には、仏具店が点在する。

[1] 『保元物語』『平治物語』『平家物語』にもたびたび登場する源氏累代の邸宅「六条堀川館」(六条大路と堀川小路との交差点の付近)の邸内にあったものとされており、後に京都三名水の1つに数えられた。 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』上巻、角川書店、1982年、671頁

[2] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[3] 『扶桑京華志』(『新修京都叢書』第22巻、臨川書店、1972年、5頁)

[4] 『東寺百合文書』ヱ函/92/8/

[5] 「九条御領邊図 後慈眼院殿御筆」『九条家文書 三』宮内庁書陵部、1973年

[6] 『権記』長保三(1001)年七月十七日条

[7] 『拾芥抄』所収「東京図」

[8] 平安京調査会 小森俊寛・原山充志「平安京左京七条二坊・八条二坊」『昭和61年度京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所

[9] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、181・183・283~290頁

[10] 『続日本後紀』承和九年十月二十日条

[11] 『山塊記』治承三(1179)年十一月三日条

[12] 九条家本『延喜式』付図「平安京図」

[13] 『拾遺抄註』(『羣書類従』第16輯(和歌部)、続群書類従完成会、1960年、252頁)

[14] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[15] 上村和直「平安京左京六条二坊五町・猪熊殿・本圀寺跡」『昭和54年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(財)京都市埋蔵文化財研究所 2012年

[16] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、305頁)

[17] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[18] 京都市編『史料京都の歴史』第12巻(下京区) 平凡社、1981年、12~16頁

[19] 京都市編、同上、299~300・458~459頁

[20] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、290頁)

[21] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[22] 建設局小史編さん委員会編『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 京都市建設局、1983年、34~41頁及び別添地図その2「建物疎開跡地利用計画図」

[23] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、前掲書(京都府上巻)、1161頁