二条大路と三条大路の中間に位置する小路。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」
[1]が設けられた。
貞観十六(874)年八月二十四日、右京側の豊財坊門(ほうざいぼうもん)が倒れ、兵士とその妻子4人が圧死したという記録がある。
[2]
平安時代、この小路沿いには公家の邸宅や、朱雀大路との交差点には南東角に左京職(さきょうしき/左京の行政をつかさどる役所)、南西角に右京職(うきょうしき)、壬生大路との交差点の北西角に大学寮(だいがくりょう/官人(官僚)の教育機関)、朱雀大路との交差点の北西角に穀倉院(こくそういん/朝廷の食糧庫)があった。
[3][4]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられるが、発掘調査
[5][6][7]の結果から、右京三条一坊三・六・七町周辺では、平安時代後期に土地の再開発が行われたようである。
他の発掘調査
[8]の結果と合わせて、皇嘉門大路との交差点を東へ入った地点や野寺小路との交差点付近で、鎌倉時代以降も宅地としての利用が継続された場所があることが判明し、完全に人が住まなくなったわけではないようである。
南北朝時代には足利直義(ただよし/尊氏の弟)の邸宅が万里小路との交差点の南西角にあったと推定されている。
[9]
初期には幕府の政務は基本的に直義が行ったとされており
[9]、室町幕府発祥の地ともいえる。
直義邸の北隣には等持院(とうじいん/仁和寺・龍安寺の近くにある寺院とは別)という仏堂が設けられ、後に「等持寺(とうじじ)」という寺院に改められた。
[10]
また、正平五/観応元(1350)年~正平七(1352)年の観応の擾乱による直義の失脚後は、それまでの直義邸(三条坊門殿)に足利義詮(よしあきら/尊氏の子で後の第二代将軍)が入ったが、将軍となった後の貞治三(1364)年、義詮は三条坊門殿の東隣に新邸を建設した。
[11]
この邸宅は、義詮の子の足利義満(第三代将軍)に引き継がれ、永和四(1378)年に花の御所(室町殿)に移るまで義満の居所となった
[9]が、それ以降も歴代の足利将軍に「下御所(しものごしょ)」と呼ばれて重要視され、しばしば使用された。
[11]
室町時代には、東京極大路から堀川小路にかけて7軒の酒屋があった
[12]ようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱では、応仁元(1467)年九月に西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)の陣であった等持寺(高倉小路との交差点の東側)に東軍の武田信賢(たけだのぶかた)勢が矢を射掛ける
[13]など戦場となることもあり、兵火による延焼も受けて、この大路の左京部分は荒廃した
[14]。
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は万里小路~室町小路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置したが、この大路沿いには等持寺、妙覚寺(室町小路との交差点の北西角)、妙顕寺(西洞院大路との交差点の北西角)といった寺院があるのみで、実質的な市街はほぼ姉小路以南であった。
[15]
永正十二(1515)年、室町幕府第十二代将軍の足利義稙(あしかがよしたね)はかつて下御所が存在した万里小路との交差点付近に新しい御所を造営した。
[16]
この付近は下京惣構の外側となっていたが、新御所の造営によって上京から町人たちが移住し、周辺は賑やかな市街地となったようである。
[16]
天正四(1576)年、織田信長は烏丸小路との交差点の北西角にあった二条家(摂関家)の邸宅を接収し、それを改造して新しい邸宅「二条新第[にじょうしんてい]/二条御新造[にじょうごしんぞう]」とした。
[17]
二条新第は天正七(1579)年に誠仁親王(さねひとしんのう/正親町天皇の皇子)に献上されたが、天正十(1582)年の本能寺の変の折、織田信忠(おだのぶただ/信長の嫡男)はここで明智軍を迎え撃って戦死した。
[17]
天正十一(1583)年、豊臣秀吉は妙顕寺を寺之内通に移転させて、跡地に自身の城館(妙顕寺城)を築き、天正十三(1585)年に完成したという。
[18][19]
妙顕寺城は周囲に堀をめぐらし、天守もあったようであり、北を二条通、南を御池通、東を西洞院通、西を油小路通に囲まれた範囲を占めていたと推定されているが、天正十五(1587)年の聚楽第(じゅらくてい)完成に伴って廃城となった。
[18][19]
大宮通以東の通りは天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発された。
[14]
大宮通以西は、慶長七(1602)年に開通したという。
[14]
江戸時代には、御所八幡宮の前を通ることから東部は「八幡町通」と称し、室町通以西を「御池通」と称した
[20][21]ようである。
東は寺町通から西は神泉苑通の西までで、加賀絹問屋・万絹問屋などの商家があり、目貫小柄類・小刀鍛冶などの職人が住んでいたようである。
[22]
江戸時代の地誌『京羽二重』には、名池として「御池」が挙げられ、昔鴨居殿(かもいどの)という邸の庭の水がとても清かったので近隣の人が汲んだとの解説が付けられている。
[23]
また、名橋として「鵲(かささぎ)の橋」が挙げられ、烏丸通との交差点を西へ入ったところにある小溝の上の橋であるとの解説が付けられている。
[24]
「御池通」の名の由来は、神泉苑(しんせんえん)の前の通りであること
[25]、この通り沿いの烏丸にあった二条良実(にじょうよしざね/鎌倉時代の関白)の別邸の池水がこの通りに注いでいたこと
[14]、この通り沿いの室町に御池町があったこと
[20]など諸説がある。
第二次世界大戦中の昭和二十(1945)年には、御池通の鴨川~堀川通で主に通りの南側に面する建物が建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で防火地帯を設けるため、防火地帯にかかる建物を強制的に撤去すること)の対象となって撤去された。
[26]
戦後、疎開跡地を利用して道路の拡幅が行われ
[26]、現在では京都のシンボルロードとなっている。
御池大橋の西詰から堀川通までは道幅約50mで、ケヤキとプラタナスの街路樹が植えられ、幹線道路として重要な役割を果たしている。
歩道も広く、京都市街の東西路の中で最も自転車が通行しやすい通りでもある。
昭和三十一(1956)年からは祇園祭の山鉾巡行路
[27]に、昭和三十七(1962)年からは時代祭の時代行列の経路となり、京都三大祭のうち2つをこの通りで見ることができる。
それぞれの祭りの当日には、河原町通~烏丸通に観覧席がずらりと設けられる。