六条大路と七条大路の中間に位置する小路。
平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち/猪隈小路との交差点付近)・西市(にしのいち/西靱負小路との交差点付近)の北側に面しており
[2]、市の繁栄に伴って繁栄したと考えられる。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」
[1]が設けられた。
平安時代、この小路沿いには西洞院大路との交差点の南西角に亭子院(ていじのいん/宇多上皇の仙洞御所)や朱雀大路をはさんで両側に東西の鴻臚館(こうろかん/外国使節の宿舎)があった。
[2]
東鴻臚館は承和六(839)年に廃止されて典薬寮(宮内省に属し、医薬などをつかさどった役所)の御薬園となり
[3]、西鴻臚館は南北二町だった敷地が平安時代後期に一町(北小路以北)に縮小はしたものの、鎌倉時代まで存続した。
[2]
西市は9世紀中頃の段階で既に衰退の兆候を見せていたようであり
[4]、この小路の右京部分も、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
東市も律令制の崩壊に伴って次第に衰退していき、平安時代末期にはかなり寂れていたとみられる
[5]が、『三長記』建久六(1195)年十月七日条には東市で餅を買った旨の記述があり、鎌倉時代初期にも機能は果たしていたようである。
ただし、『百錬抄』建仁元(1201)年九月二十九日条によれば、同日に市屋庁と近辺の小屋などが焼亡したといい、これによって東市は完全に機能を停止したのではないかと考えられる。
同時期には、西洞院大路との交差点の南西角に後鳥羽天皇(→上皇→法皇)の生母・七条院藤原殖子(しちじょういんふじわらのしょくし)の七条坊門邸があったが、建久三(1192)年に焼失し、衰退したようである。
[6]
貞和元(1345)年、日静(にちじょう/南北朝時代の日蓮宗・法華宗の僧)が北は六条坊門小路、南は七条大路、東は堀川小路、西は大宮大路で囲まれた土地を光明天皇(こうみょうてんのう)から賜り、本國寺(ほんこくじ)を創建した。
[7]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ
[8]、乱後は下京の市街の外に位置した
[9]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
天正十八(1590)年、通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。
[8]
天正十九(1591)年、醒井通との交差点の西側に西本願寺(現在の正式名称は本願寺)が創建され
[10]、それまでの本國寺の敷地の一部が西本願寺の敷地となった。
また、慶長七(1602)年には烏丸通~新町通に東本願寺(現在の正式名称は真宗本廟)が創建され、通り沿い(高倉通以西)には東西の本願寺の寺内町が成立した。
[10]
江戸時代に描かれた『名所手引京圖鑑綱目』や『京都指掌図 文久改正』を見ると、江戸時代の正面通は、東は方広寺前から西は枳穀邸(きこくてい/現在の渉成園[しょうせいえん])の東側までで、鴨川にも簡素な橋が架けられていたようである。
「正面通」の名は、豊臣秀吉が建立した方広寺大仏殿の正面の通りであったことに由来する。
枳穀邸の西側(間之町通)~醒井通(現在の堀川通)は、当初は烏丸通以東が「御影堂筋」、新町通~醒井通が「珠数屋町筋」と呼ばれたが、通り沿いの町の成立に伴って全体を「中珠数屋町通」「御前通」と呼ぶように変化したようである。
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「御前通」の名は、西本願寺の前(御前)を通ることに由来する。
なお、間之町通~不開門通はずれが大きいため、平安京の七条坊門小路ににあたる通りとはいえない。
堀川通との交差点の東側には、正面通上に西本願寺の総門があり、総門から油小路通との交差点にかけて仏具店が並び、寺内町の雰囲気を残している。
油小路通との交差点の南東角には、レンガ造りでドーム屋根を持つ西本願寺伝道院があり、独特の景観を見せている。