三条大路と四条大路の中間に位置する小路。
慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記』によれば、左京の市街を上下に二分した地理的概念「上辺(かみのわたり)」「下辺(しものわたり)」の境界がこの小路付近であったようである。
朱雀大路との交差点の左京側・右京側には、それぞれ1箇所ずつ「坊門」
[1]が設けられた。
平安時代、この小路沿いには公家の邸宅が点在し、右京でも淳和院(じゅんないん/道祖大路との交差点の南東角)や西宮(にしのみや/皇嘉門大路との交差点の南西角)など大規模な邸宅が営まれた。
[2]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
鎌倉時代以降、室町小路~油小路は商業街として繁栄し、酒屋・油屋が点在した。
[3]
南北朝時代の建武新政権期、この小路の町小路以西には武士が多く居住していたようである。
[4]
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、東京極大路から猪隈小路にかけて10軒の酒屋があったようである。
[5]
永享五(1433)年、櫛笥小路との交差点の北東角の地に油小路の高辻小路~五条坊門小路付近にあった本応寺が移転し、寺号を「本能寺」と改めた。
[6]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させた。
[7]
明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興はなされ、この小路は東洞院大路~町小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し
[8]、概ね烏丸小路の東~町小路は下京の市街を形成したとみられるが、大永三(1523)年頃のこの小路付近を詠んだ句「よるはしぐれ朝戸は霜の板屋かな」
[9]をみると、粗末な板屋の町並みが続いていたことがうかがえる。
[3]
平成十五(2003)年度の左京四条二坊十四町の発掘調査
[10]では、油小路との交差点を東に入った地点で平安時代の四条坊門小路南側溝と平安時代~室町時代の路面、戦国時代の濠が検出された。
濠は北肩部が南側溝と重複しており、下京惣構の一部であると考えられている。
天文五(1536)年に起こった天文法華の乱で、本能寺は比叡山延暦寺の軍勢によって焼き討ちにされて堺へ避難した。
[11]
本能寺は天文十一(1542)年に後奈良天皇の勅許によって京への帰還を許され、油小路との交差点の北東角に移転したと推定されており
[12]、天文十六(1547)年より再建が行われたようである
[13]。
『熊谷(純)家文書』には、天文十四(1545)年六月に油小路との交差点の北東角の土地が土倉の沢村氏から本能寺に売却された記録が残っている。
[14]
永禄四(1561)年、イエズス会の宣教師・ヴィレラは室町通との交差点を西へ入ったところ(姥柳町/うばやなぎちょう)に居を構え、教会とした。
[15]
天正四(1576)年には老朽化のため、同地に教会が新築され、「被昇天の聖母教会」(通称「南蛮寺」)と名付けられた。
[16]
狩野元秀(かのうもとひで/宗秀[そうしゅう])筆『扇面洛中洛外図六十一面』の「都の南蛮寺図」に描かれているとおり、教会は3階建ての和風建築であり、門前には南蛮帽を売る店もあったようである。
[16]
この教会は、豊臣秀吉が天正十五(1587)年に出したバテレン追放令によって閉鎖あるいは破却されたとみられるが、その状況について記録からは詳しく知ることはできないという。
[17]
南蛮寺跡の発掘調査(後述)
[17]では教会の遺構が検出され、四条坊門小路についても巷所化(道路の私有地化)への経過がうかがえる。
元亀元(1570)年、織田信長が上洛して本能寺に入り
[18]、天正八(1580)年、村井貞勝(むらいさだかつ/織田信長の家臣)に命じて本能寺城としての普請(工事)を行った
[13][19]。
天正十(1582)年、「本能寺の変」が起こって信長は自害に追い込まれ、本能寺(城)は焼失した。
[20]
本能寺は天正十五(1587)年に秀吉によって現在地(寺町通と御池通との交差点を下がった場所)へ移転させられた
[21]が、現在も通り沿いの「元本能寺南町」という町名が名残をとどめている。
平成十九(2007)年度の左京四条二坊十五町の発掘調査
[22]では、西洞院大路との交差点の北西で本能寺の南濠と考えられる室町時代後期の濠が検出されている。
天正十八(1590)年、この通りの左京部分は豊臣秀吉によって再開発された。
[7]
天正十九(1591)年、蛸薬師と呼ばれる永福寺(えいふくじ)が寺町通との交差点の東側に移転してきたことにから「蛸薬師通」と呼ばれるようになった。
鎌倉時代、永福寺の僧・善光が病気の母のために蛸を買って帰ったところ、怪しんだ人々に中を見せろと迫られ、本尊の薬師如来に祈りながらふたを開けると中身は8巻の大乗経典に変わっていたという逸話から、永福寺が蛸薬師と呼ばれるようになったようである。
[23]
江戸時代の蛸薬師通は、東は寺町通までで、玉屋・舎利塔屋・眼鏡・おじめ・箸屋・茶筅などの商家があったようである。
[24]
俳諧書『毛吹草』には、この通りの名産として鋳物目貫が挙げられている。
[25]
江戸時代の地誌には西は大宮通の西までと記載されているが
[24][26]、明治二十七(1894)年の平安京遷都千百年事業で編纂された『平安通志』付図「平安京舊址實測全圖」では、千本通を越えて佐井通まで、小道や水路として明治時代まで存続していたことが分かる。
現在、この通り沿いには繊維問屋が多い。