唯一、旧国名が使われている小路であるが、この小路沿いに信濃の国司でも住んでいたのであろうか。

『拾芥抄』には、この小路と信濃小路の両方の別称として「唐橋小路」の名が記載されているが[4]、東寺境内の領域を南は九条大路から北は辛橋(唐橋)小路まで南北二町とする『帝王編年記』の記述から、辛橋(唐橋/韓橋)が架けられていたのは一筋北の九条坊門小路であると考えられている。

平安時代、この小路沿いには藤原師輔(ふじわらのもろすけ/平安時代中期の関白)の九条殿(くじょうどの)などの公家の邸宅、西洞院大路と交差点の北東角に施薬院(せやくいん/貧しい病人を収容・治療する施設)、北西角に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん/空海が創設した庶民のための教育施設)があった[5]が、当初から空閑地が多かったとみられる。[2][6]
大宮大路との交差点の西側には東寺(とうじ)、西大宮大路との交差点の東側には西寺(さいじ)という平安京を守護する官立寺院が置かれた。[2][6]
東寺は現在もほぼ同じ場所に存在しているが、西寺は天福元(1233)年の火災によって塔が焼失[7]して以降衰退し、廃絶したと考えられているが、『二水記』大永七(1527)年十月二十七日条に西寺に陣を敷いたとの記述があることから、東寺の末寺となって戦国時代まで存続したとの見方[8]もある。

空海の著作『三教指帰』によれば、平安時代前期の左京九条周辺は湧き水多く、流水が満ち溢れていたようである。[5]

平安時代末期、富小路との交差点の南西角には藤原兼実(ふじわらのかねざね/九条兼実、平安時代末期~鎌倉時代前期の摂政・関白)の九条亭(九条第)があった。[9][10]
鎌倉時代以降、九条亭(九条富小路亭)が九条家(兼実を祖とする五摂家の1つ)代々に伝領された。[11]

暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[12]際、この小路には大宮大路との交差点に篝屋が設置された。[13]

鎌倉時代以降は道路の耕作地化(巷所化)が進み、南北朝時代の応安三(1370)年の「東寺領巷所検注取帳案」によれば、同年時点でこの小路の堀川小路~猪隈小路(南側)と壬生大路~朱雀大路が東寺領巷所となっていたようである。[14]
応永九(1402)年の「侍所頭人土岐頼益遵行状」によれば、猪隈(猪熊)小路との交差点交差点の西、北側に信濃小路猪熊散所[15]があったようであり[16]、応永十八(1411)年の「南小路散所法師所役条々請文案」では、南小路散所(南小路は街路名ではなく散所[散所在所]の名前)があったことが確認できる[17]が、両者はほぼ同一の場所とされ[18]、信濃小路猪熊散所から南小路散所が分かれたようである[19]
この小路沿いには、商人・職人の存在も確認でき、猪熊(猪隈)小路との交差点には酒屋、大宮大路との交差点には番匠(木造建築を造る職人)がそれぞれ1軒ずつ存在したという。[20]

周辺が「東九条領」と呼ばれる九条家の所領であったことから、九条家は既に洛中とはいえなくなった場所に位置する九条亭をなおも拠点として維持し続け、九条家の家司(家僕)[21]たちは邸宅周辺の東九条に居を構えた。[22]
九条家の家司(家僕)であった信濃小路氏の家名はこの小路名から取られている。

永正十六(1519)年の九条尚経(くじょうひさつね/戦国時代の九条家当主、関白)の筆による「山城国東九条領条里図」には、平安時代末期~鎌倉時代初期の九条亭(九条第)の所在地と推定されている左京九条四坊十二町(富小路との交差点の南西角)に「中殿」と記されており、これが九条亭ではないかと考えられる。[23]

江戸時代には、西大宮大路との交差点周辺の集落が「唐橋村」と呼ばれた。
大宮通以東の道は消滅し[24]、田畑のみで人家はなかったという[3]が、東寺の西側では道が残っており、唐橋村に通じていたようである。[24]

この時期には一筋北の九条坊門通が誤って「信濃小路」と呼ばれたり、この通りが「唐橋通」と呼ばれることもあったようである。[3][24]
ただし、『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では九条坊門小路にあたる通りが唐橋通として描かれており、唐橋通と九条通の間、竹田街道から高瀬川にかけて信濃小路が描かれていることから、御土居の外側でも部分的に通りが残っていた可能性がある。

明治時代初期には、西九条村内の信濃小路通で西洞院川が分岐し、西流は西九条村東南の養水となり、東流は東九条村の養水となっていた[25]というが、明治時代初期の地図を見ると、この信濃小路通は九条坊門通(現在の東寺道)である可能性が高い。
また、明治時代には大宮通との交差点付近の細い道に信濃小路の名が残っていたという[26]が、現在は小路名は完全に消滅してしまっており、途切れ途切れの道で通り名が付いている部分は全くない。

散所の名前であった南小路は、猪熊通との交差点の北西の町名として残っている。

[1] 『東寺百合文書』ユ函/79/1

[2] 『拾芥抄』所収「東京図」「西京図」

[3] 『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、25頁)

[4] 『拾芥抄』(『故実叢書』第22巻、明治図書出版、1993年、408頁)

[5] 空海「綜芸種智院の式」『三教指帰・性霊集』 岩波書店、1965年、420頁

[6] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、302~309頁

[7] 『百錬抄』天福元(1233)年十二月二十四日条

[8] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、95~96頁

[9] 『玉葉』寿永二(1183)年七月二十一日条

[10] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 26(京都府)』下巻、角川書店、1982年、78~80頁

[11] 五号 建長二(1250)年「九条道家初度惣処分状」『九条家文書 一』宮内庁書陵部、1971年

[12] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[13] 京都市編『京都の歴史2 中世の明暗』 学芸書林、1971年、424頁

[14] 『東寺百合文書』ひ函/17/1/

[15] 東寺周辺には、「散所法師」(さんじょほうし/東寺の支配下にあって寺中の掃除や警衛など種々の雑役に従う人々)がおり、彼ら及び彼らの居所を「散所」(居所は「散所在所」とも)という。

[16] 『東寺百合文書』ト函/78/1/

[17] 『東寺百合文書』の函/33/

[18] 宇那木隆司「中世後期における東寺散所について」『研究紀要』第3号、(財)世界人権問題研究センター、1998年、103~104・111頁

[19] 京都市編『史料京都の歴史』第13巻(南区) 平凡社、1992年、31頁

[20] 京都市編、同上、34頁

[21] 九条家の家司(家僕)は、唐橋氏・信濃小路氏・富小路氏など、東九条を通る小路名から取った家名が多い。

[22] 廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園 九条政基・尚経期を中心に」『国立歴史民俗博物館研究報告』第104集、国立歴史民俗博物館、2003年

[23] 四八「山城国東九条領条里図」(東京大学史料編纂所編『日本荘園絵図聚影二 近畿一』東京大学出版会、1992年)

[24] 『山州名跡志』(『新修京都叢書』第16巻、臨川書店、1969年、137頁)

[25] 京都市編、前掲書(南区)、202頁

[26] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、23頁)