平安京の官設市場であった東市(ひがしのいち/猪隈小路との交差点の北側)・西市(にしのいち/西靱負小路との交差点の北側)に接していた。
[3]
昭和六十(1985)年度の左京八条二坊の立会調査
[4]では、猪隈小路以東で平安時代中期から現在まで連綿と続く塩小路路面が検出されているが、平安時代前期には路面が存在しなかったと推定されている。
鎌倉時代には、八条院(鳥羽天皇の皇女)の御所跡(八条大路と東洞院大路との交差点の北西角)を中心に八条院町が成立した。
[5]
塩小路ではおおよそ東洞院大路から油小路にかけて、銅細工などの金属生産をはじめとする様々な職能を持った人々が集住し
[5][6]、七条町(七条大路と町小路の交差点)と並んで中世の商工業の中心地となった。
『民経記』寛喜三(1231)年六月三日条によれば、西洞院大路との交差点付近に「潤屋」と評される町家が建ち並んでいたようであるが、同日に群盗に囲まれて放火され、炎上したという。
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[7]際、この小路には室町小路との交差点に篝屋が設置された
[8]。
八条院町は、正和二(1313)年に後宇多上皇(ごうだじょうこう)の院宣(上皇の命令を伝達する文書)によって東寺領となった
[9][10]ようであるが、南北朝の争乱でこの地は大打撃を受けて職人たちの離散を招き、工房街としての歴史に幕を閉じたようである。
[11]
南北朝時代の田地に関する文書に「塩小路大宮」
[12]「塩小路櫛笥」
[13]とあり、大宮大路や櫛笥小路との交差点付近が耕作地となっていたことがうかがえるが、室町時代には東洞院大路や町小路との交差点付近に酒屋があった
[14]ようである。
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱はこの小路の左京部分を荒廃させ
[15]、乱後は下京の市街の外に位置したため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
[16]
この通りの油小路通~大宮通は慶長年間(1596~1615)に再開発され
[15]、この通り付近が洛中と洛外の接点となった。
この通りの堀川に架かっていた橋の傍らに生酢を商う家があったため、橋を「生酢屋橋」と呼んだことから「生酢屋橋通」と呼ぶようになったようである
[17][18]が、現在主に使用される「木津屋橋通」の表記の由来は不明である。
ちなみに、生酢屋橋は「月見ノ橋」とも呼んだようである。
[18]
江戸時代の生酢屋橋通は、東は油小路通の東から西は大宮通までであった。
[18]
ただし、『元禄十四年実測大絵図(後補書題 )』では、位置関係の整合性が取れていない部分もあるものの、東洞院通と西洞院通の間、七条通と八条通の間に塩小路通、八条坊門通、梅小路通の3本の通りが描かれていることから、東洞院通~西洞院通には通りが存在した可能性がある。
江戸時代の地誌『京町鑑』には、生酢屋橋通は八条坊門小路にあたる通りとして記載され、一筋北の魚棚通が塩小路にあたる通りとして記載されているが、両方とも誤りである。
[18]
東洞院通の東側には「東塩小路村」、御前通(西大宮大路にあたる通り)付近には「西塩小路村」という集落がそれぞれ形成された。
現在、木津屋橋通の一筋南の通り(八条坊門小路にあたる通り)を「塩小路通(しおこうじどおり)」と呼ぶが、平安京の塩小路にあたるのは木津屋橋通である。
西洞院通以東は、田畑の中に道を通し、明治二十八(1895)年に開通したという。
[15]
新町通以東は通り沿いにホテルや旅館が多く、京都駅に近接して人通りは多いが、通り名の知名度は低い。
平成二十四(2012)年には、大宮通との交差点の南西角に京都水族館が開業し、賑わいを見せている。