大内裏の正門である朱雀門(すざくもん)と平安京の正門である羅城門(らじょうもん)を結ぶ平安京のメインストリート。
道幅は約85mあり、大路の両側に柳が植えられ
[3]、『延喜式』には「守朱雀樹四人」
[4]とあり、柳樹を守る役人の人数が定められている。
「朱雀大路」の名は平安京造営当初からの呼び名と考えられるが、文献上の初見は『続日本後記』承和三(836)年七月二十一日条である
[3]。
羅城門以南は、鳥羽作道(とばのつくりみち/鳥羽を経由して淀方面に通じていた道路)につながっていた。
[3]
平安時代に発達した歌謡『催馬楽(さいばら)』の「大路」という曲では、「大路に 沿ひてのぼれる 青柳が花や 青柳が花や 青柳が撓ひを見れば 今さかりなりや 今さかりなりや」と歌われている。
[3]
平安京は、この大路を境に左京と右京に分けられた。
空海の著作『三教指帰』には、「離(みなみ)には朱雀の小澤あり」という記述があり、九条周辺のこの大路には小さな流れがあったようである。
[5]
この大路沿いには、二条大路との交差点の南西角に穀倉院(こくそういん/朝廷の食料庫)、三条坊門小路との交差点の南側に左右の京職(きょうしき/京の行政をつかさどる役所)、三条大路との交差点の南西角に朱雀院(すざくいん/宇多天皇や朱雀天皇の譲位後の御所)、七条大路との交差点の北側に東西の鴻臚館(こうろかん/外国使節の宿舎)があった
[6]が、都市規模に比べて道幅が大きすぎたため、早くから牛馬が放し飼いにされたり
[4]、盗賊の棲家となったといい、取締りのために朱雀大路の坊門ごとに兵士12人が配置された。
[7]
羅城門は弘仁七(816)年に倒壊し
[8]、再建されるも天元三(980)年に再び倒壊し
[9]、以後再建されることはなかった。
朱雀門は倒壊や焼失を繰り返したものの、その都度再建されたとみられ、鎌倉時代の仁治三(1242)年にもその存在が確認できる
[10]が、13世紀後半~14世紀初頭に門の建物が消滅したようである。
[11]
貞観十(868)年には京中の貧しい者を朱雀門前に集めて者を賜る
[12]など、朱雀門前やこの大路は、賑給(しんごう/困窮者に対して食料や金銭を施すこと)の場所であった。
[13]
朱雀門についてはこちら→ 羅城門についてはこちら→
『貞観儀式』によれば、大嘗会(だいじょうえ/天皇の皇位継承に伴って行われる儀礼、大嘗祭[だいじょうさい])では、神供物や祭器具等を携えた悠紀(ゆき)・主基(すき)両国
[14]の行列は大内裏の北方(北野)の斎場を出発して大内裏の朝堂院に設けられた大嘗宮に向かうが、その経路は以下のとおりである。
[15][16]
悠紀国の行列は大宮大路を、主基国の行列は西大宮大路をそれぞれ南下し、七条大路に至って悠紀国の行列は西行、主基国の行列は東行する。
[15]
両国の行列は七条朱雀(七条大路との交差点)で合流し、七条朱雀を出発点として、悠紀・主基両国合わせて五千人に及ぶ行列が並んで朱雀大路を北上し
[15]、この様子を上皇をはじめ多くの人々が見物したという。
[16]
東鴻臚館は承和六(839)年に廃止されて典薬寮(宮内省に属し、医薬などをつかさどった役所)の御薬園となり
[17]、西鴻臚館は南北二町だった敷地が平安時代後期に一町(北小路以北)に縮小はしたものの、鎌倉時代まで存続したとされている。
[6]
応保二(1162)年頃に著された『大槐秘抄』や『兵範記』仁安三(1168)年十一月二十二日条の記述から、大嘗会の悠紀・主基両国の行列に曳かれた標山(ひょうのやま)
[18]が西鴻臚館に格納されていたとする解釈
[19]もあるものの、原美和子氏はこの解釈を否定し、(西)鴻臚館についても平安時代後期には跡地の地名として用いられた可能性を指摘している。
[16]
平安時代中期以降は、東京極大路の東(京外)に「東朱雀大路(ひがし(の)すざくおおじ)」という新たな大路が設けられた
[20][21]ため、西朱雀大路と呼ばれるようになった
[2]。
この大路が持つ本来的な意味や機能は次第に失われ、平安時代後期には市街地の西境と意識されるに至ったようである。
[22]
右京の衰退と度重なる火災による大内裏の衰退に伴い、この大路も次第に衰退していったが、藤原俊盛(ふじわらのとしもり)の邸宅(四条大路との交差点の南西角)など、平安時代末期にも大路の西側(右京側)に邸宅が存在した
[6]。
同時期には主に七条大路以南で巷所化(道路の耕作地化)が進み、八条大路との交差点付近には「八条朱雀巷所」という巷所もあったようである
[23]。
発掘調査によっても、この大路が平安京の中心街路としての機能を喪失し、衰退していたことがうかがえるが、白河上皇・鳥羽上皇によって造営された鳥羽殿(とばどの/鳥羽離宮)へ向かう道として、平安時代後期~末期には行幸(天皇の外出)・御幸(上皇や女院の外出)に頻繁に利用され
[24]、道路としては機能していた。
『兵範記』仁安三(1168)年十月五日条には、朱雀大路の七条大路に至るまでの泥を掃除し、修理することと巷所化の禁止が命じられた旨の記述があるが、これは高倉天皇の大嘗会を翌月に控え、悠紀・主基両国の行列が通る七条大路以北の清掃・整備を行うものであったと考えられる。
『兵範記』同年十一月二十二日条には高倉天皇の大嘗会の様子が詳細に記されており、後白河法皇は朱雀門前で行列を見物したようである。
平安時代末期には、保元の乱における源為義(みなもとのためよし/七条大路との交差点で処刑)や鹿ヶ谷の陰謀における西光(さいこう/五条大路との交差点で処刑)など、罪人の処刑地となることも多かったようである。
[2]
『平家物語』によれば、寿永二(1183)年に安徳天皇が平家一門と都落ちをする際も、七条大路との交差点からこの大路を南へ向かったようである。
承久年間(1219~21)頃には、二条大路以北にも道が開かれたという。
[25]
鎌倉時代以降も、市街地の西のはずれの南北縦貫路として、道路としての命脈は保っていたと考えられる。
『太平記』によれば、南北朝時代の争乱ではしばしば戦場や軍勢の通路となった。
大嘗会の行列の経路は南北朝時代~室町時代、永徳三(1383)年の後小松天皇、応永二十二(1415)年の称光天皇、永享二(1430)年の後花園天皇の頃には短縮され、悠紀国の行列は大宮大路南下→四条大路西行、主基国の行列は西大宮大路南下→四条大路東行となり、合流・出発点は四条朱雀(四条大路との交差点)となったようである。
[16][26]
室町時代には、この大路沿いにも春日小路から五条坊門小路にかけて6軒の酒屋があったようである。
[27]
「千本」と呼ばれた蓮台野(れんだいの/葬送の地)に通じる道であったことから、「千本通」と呼ばれるようになったとみられている。
[28]
千本の名は、日蔵(にちぞう/三善清行[みよしきよゆき/きよつら]の息子)が冥界で会った醍醐天皇の命令で、菅原道真の供養のために蓮台野に千本の卒塔婆を立てたことに由来するという。
[29]
江戸時代は、北は洛北・鷹峯から南は九条通までの通りであった。
[29]
上京には下立売通以北に市街地、二条城付近に武家屋敷街があった
[30]が、二条城以南は集落が若干点在するのみの野道であったようである。
[31][32]
寛永十八(1641)年、この通りの東側、現在の中央卸売市場の南側の通り~正面通の一筋南に遊郭が移され、その移転の様子が島原の乱のようだといわれたことから「島原」と呼ばれた。
[33]
中央卸売市場の南側の通りとの交差点の東側には、島原の西側の出入り口であった西門の跡がある。
享保七(1722)年の『南部(彰)家文書』によれば、千本通の三条通~松原通は道幅が三尺(約90cm)まで狭められていたが、京都所司代の板倉重矩(いたくらしげのり)が在京の時、寛文九(1669)年に九尺(約2m70cm)となったという。
[34]
昭和五十六(1981)年度の左京三条一坊の発掘調査
[35]によれば、押小路通との交差点の北東とその周辺は、慶長八(1603)年の二条城築城以降も田園風景をとどめていたが、この地に西町奉行所が開設された寛文年間(1661~72)頃に屋敷地に変貌したようである。
宝暦八(1758)年十二月に、三条通との交差点を上がった地点の西側の畑地を借りて茶店が建ち、通行人に焼き餅を商った記録
[36]があり、当地域は江戸時代には畑地として利用されていたことが分かる。
天保十五(1844)年の『竹内(新)家文書』によれば、千本通の三条通付近から四ツ塚(よつづか/羅城門跡)付近にかけて、通りが狭くて牛馬や人力車が行き違うのに難儀するので拡幅願いが提出されたようである。
[37]
文久三(1863)年以降、堀川通以西の四条通に沿って西流していた四条川の一部が西高瀬川として利用され
[38]、慶応四(1868)年の『京町御絵図細見大成』には、四条通との交差点の西北に「西高瀬舟入」が記載されているが、明治二(1869)年、京都府の水路改良計画によって、西高瀬川は三条通に沿うルートに付け替えられた
[39]。
明治十七(1884)には嵯峨野から筏で材木を運び込むことが許可され
[40]、西高瀬川では「筏流し」と呼ばれる材木曳航がみられた
[38]。
千本通との交差点以南は材木商が軒を連ねる材木市場(千本市場)として繁栄した
[40]が、水運は明治三十二年(1899)の京都鉄道(後の国鉄→JR山陰本線[嵯峨野線])の開通によって衰退していったようである
[41]。
平成十六(2004)年度の右京三条一坊四町の発掘調査
[41]では、姉小路通と千本通との交差点付近で幕末~明治時代の西高瀬川の舟入り遺構(筏流しで材木を搬入した集木場の遺構)が検出されている。
明治四十四(1911)年に始まる道路拡築事業によって千本通の今出川通~三条通が拡幅され
[42]、明治四十五(1912)年から昭和四(1929)年にかけて、京都市電千本線四条大宮~千本三条~千本北大路が開業し、三条通以北に電車が走った。
市電のルートについて、千本通にはまっすぐ羅城門(跡)まで市電が通る予定であったが、通りが広くなると同業者町が分断されると材木商たちが大反対したため、市電は千本三条から後院通を通ることになったという話がある。
[43]
明治時代中期から千本通の今出川通~中立売通を中心とする一帯が「西陣京極」と呼ばれ、千本中立売(中立売通との交差点)界隈は国華座・京極座・朝日座・千本座(後の千本日活)・長久亭(後の長久座)・福の家などの座・館(寄席や芝居小屋)が次々と開場し、商店も多数軒を連ねるようになり、西陣織の活況とも相まって急速に発展した。
[44]
日本映画の発祥の地ともなった西陣京極の賑わいは新京極にも劣らず、庶民が気軽に出歩けるところから「ゲタばき京極」という言葉も生まれ
[44]、メインストリートとしての地位を失って久しかったこの通りが京都を代表する繁華街に返り咲いた。
千本中立売の交差点は、市電の堀川線と千本線が平面交差(ダイヤモンドクロッシング、直交)する珍しい場所で、交差点ではあまりに大きな振動を受けるため、電車の上に付いているポール(トロリーポール/路面電車でよく用いられた集電装置、パンタグラフと比べて問題が多い)が外れて運転士が直す場面がよく見かけられたという。
[44]
西陣京極の繁栄は1950年代頃まで続いたが、1960年代以降、映画館は相次いで閉館となった。
また、市電千本線は昭和四十七(1972)年に全線廃止された。
現在の千本通は、市電が走っていた名残で三条通以北は幹線道路となっており、広い通りであるが、三条通以南は狭い通りであり、幅約85mの大路の面影はない。
三条通~四条通には、現在も材木業者が点在する。
七条大路と朱雀大路との交差点。
『三代実録』貞観七(865)年五月十三日条によれば、疫神祭が行われる地であった。
『清獬眼抄』によれば、康平七(1064)年十二月六日に、流罪となった源頼資(みなもとのよりすけ/平安時代中期の武士)の配所(土佐国)への受け渡しをこの地で行ったという。
[45]
『保元物語』によれば、保元元(1156)年の保元の乱で敗れた源為義(みなもとのためよし/源義朝[みなもとのよしとも]の父)はこの地で斬られ
[46]、為義が斬られたのを知った為義の妻がこの地を訪れたが、何の名残も見えなかったという。
『中右記』大治五(1130)年十一月十日条・『玉葉』治承四(1180)年十一月二十六日によれば、平安時代後期~末期にはこの地は官人参集の場所となったようである。
説経(せっきょう/説経節[せっきょうぶし]ともいい、中世の語りもの芸能)で人気を博した作品「さんせう太夫」
[47]の主人公づし王(津子王)がさんせう太夫のもとから逃げ、丹後の国分寺の聖に背負われてたどり着いた場所がこの地にあった朱雀権現堂である。
[48]
説経は室町時代には芸能として確立していたと考えられているので、『太平記』の記述と合わせて、朱雀権現堂の歴史は少なくとも中世には遡るとみられている。
[48][49]
『朱雀権現堂略縁起』・『朱雀権現堂縁起』によれば、天安二(858)年、文徳天皇が元興寺(がんこうじ/奈良の寺院)より勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)を朱雀の地に移して歓喜寺(かんぎじ)と名付けた。
[48]
また、『朱雀権現堂略縁起』によれば、左大臣顕光(平安時代中期の公家、藤原顕光[ふじわらのあきみつ])が宅地を寄進して伽藍を拡大し、長保二(1000)年に祇陀林寺(ぎだりんじ)となったという。
[48]
この寺は南北朝時代の元弘の乱、室町時代の応仁の乱で焼失したが、勝軍地蔵と津子王の地蔵尊は残ったといい、江戸時代(『朱雀権現堂縁起』によれば慶長年間)には浄土宗の権現寺(ごんげんじ)となった。
[48]
『都名所図会』「朱雀権現堂・為義塚」によれば、寺は七条通との交差点の南西にあり、寺の前には源為義の塚と供養塔があったようである。
権現寺は明治四十四(1911)年、梅小路貨物ヤードの整備に伴い、大正二(1913)年に七条通と七本松通との交差点を下がった地点(現在地)に移転し、源為義の塚と供養塔も寺とともに移転した。
[50]