平安時代、二条大路以北のこの小路沿いは邸宅街の様相を呈していた。[2]
平家討伐を企てた以仁王(もちひとおう)は、三条大路との交差点の北西角に邸宅を構えていたので「高倉宮(たかくらのみや)」と呼ばれた。[3]
治承四(1180)年、以仁王は各地の武士たちに平家討伐の令旨(皇族の命令を伝達する文書)を下し、この企ては早々に露見して以仁王自身も奈良へ逃れる途中で討たれたものの、これが治承・寿永の乱の契機となったため、この邸宅が乱の発火点とされている。[3]

鎌倉時代には、邸宅街は二条大路以南にも拡大した。[2]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した[4]際、この小路には九条大路との交差点に篝屋が設置された[5]

南北朝時代には足利尊氏の邸宅が二条大路との交差点の南東角、足利直義(ただよし/尊氏の弟)の邸宅が三条坊門小路との交差点の南東角にあったと推定されている。[6]
初期には幕府の政務は基本的に直義が行ったとされており[6]、室町幕府発祥の地ともいえる。
尊氏邸と直義邸にはさまれた場所には等持院(とうじいん/仁和寺・龍安寺の近くにある寺院とは別)という仏堂が設けられ、後に「等持寺(とうじじ)」という寺院に改められたが、等持寺は尊氏邸の旧地を取り込んで北側に拡大されたと推定されている。[7][8]

南北朝時代から行われるようになった祇園会(ぎおんえ/祇園祭)の山鉾巡行は、貞治三(1364)年頃から旧暦の六月七日(西暦の7月17日)と旧暦の六月十四日(西暦の7月24日)の両日に行われるようになったと推定されており[9]、六月七日には四条大路→東京極大路→五条大路、六月十四日には三条大路→東京極大路→四条大路がそれぞれ山鉾の巡行路となったと考えられている[10]
しかし、『師郷記』宝徳三(1454)年六月十四日条によれば、室町殿(室町幕府第八代将軍の足利義政)に参るように命じられたため、同日に山鉾が万里小路を北へ進み、鷹司小路を西に折れて、高倉小路を北へ進み、義政は高倉小路の延長部分と武者小路との交差点の北東角にあった烏丸殿の四足門(よつあしもん)の北に桟敷を構えて見物したという。
室町時代には、足利将軍や天皇・上皇が見物するために山鉾が上京まで参上することがたびたびあったようである。[11]

室町時代は、三条大路~五条大路が商業地として栄え、錦小路との交差点付近には伯楽座(ばくろうざ/商工業座)があった。[2]
また、応永三十二(1425)年・応永三十三(1426)年の『酒屋交名』によれば、一条大路から五条大路にかけて18軒の酒屋があったようである。[12]

文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱では、この小路沿いに東軍の拠点であった内裏(土御門大路との交差点の北西角)[13]や西軍の畠山義就(はたけやまよしなり)の陣であった等持寺があったため、戦場となることもあった。
応仁元(1467)年九月には、東軍の武田基綱(たけだもとつな)の軍勢が等持寺に矢を射かけたのを発端に、西軍が三宝院(さんぽういん/高倉小路との交差点の南東角)や浄花院(じょうげいん/土御門大路と室町小路との交差点付近)を焼き討ちにし、内裏を占拠するなど攻勢を見せ、周辺の多くの公家や武家の邸宅が延焼したという。[14][15]

乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続きこの小路を荒廃させ[16]、北部では内裏が生き残ったものの、内裏も荒廃していたようである[17]
戦国時代はこの小路の姉小路~樋口小路が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の東限に位置した[18]が、実質的な市街からは外れており、この小路より東は人家がなく、鴨川まで田園風景が広がっていたという[19]

元亀四(1573)年、北は土御門大路、南は近衛大路、東はこの小路、西は烏丸小路で囲まれた地域に、織田信長によって「新在家(しんざいけ)」という都市集落が建設された。
新在家は惣構で囲まれていたという。[20]
天正十八(1590)年、この通りは豊臣秀吉によって再開発された。[16]

大永三(1523)年から寛文十三(1673)年にかけて椹木町通(中御門大路)との交差点の北に頂妙寺(ちょうみょうじ)という寺があった[21]ため、頂妙寺通とも呼んだ。[22]
また、南で佛光寺に突き当たるため、三条通から佛光寺の北側にかけて仏光寺通とも呼び、佛光寺以南を高倉通と呼んだ。[23]

江戸時代の高倉通は、南は七条通までで、竹屋・扇骨・籠細工・つづら・とい竹など竹製品を扱う店が多かったが、錦小路通付近には青物問屋もあったようである。[24]
北は椹木町通まで達していた[24]が、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した[25]ことに伴い、丸太町通以北の通りが消滅した[16]

現在の高倉通は、JR在来線の南で大きく曲がっている。
ちなみに、京都御苑内の九条池(この通りの延長線上)に架かる橋は、「高倉橋」と名付けられている。

[1] 『左経記』長元四(1031)年二月二十九日条

[2] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 DVD-ROM』 角川学芸出版、2011年

[3] 古代学協会・古代学研究所編『平安京提要』 角川書店、1994年、239~240頁

[4] 野口実・長村祥知・坂口太郎『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』 吉川弘文館、2022年、137~139頁

[5] 下沢敦「京都篝屋の設置場所に関する試論」『早稲田大学大学院法研論集』第77号、早稲田大学大学院法学研究科、1996年

[6] 山田徹『京都の中世史4 南北朝内乱と京都』 吉川弘文館、2021年、126~128頁

[7] 早島大祐・吉田賢司・大田壮一郎・松永和浩『京都の中世史5 首都京都と室町幕府』 吉川弘文館、2022年、82~87頁

[8] 「2 室町期の京都 山田邦和作成」 早島ほか、前掲書

[9] 河内将芳『室町時代の祇園祭』 法藏館、2020年、88頁

[10] 河内、同上、98~99・108~110頁

[11] 河内、同上、138~142・153~166頁

[12] 『酒屋交名』(『北野天満宮史料 古文書』 北野天満宮、1978年、34~46頁)

[13] 早島ほか、前掲書、115頁

[14] 『経覚私要鈔』応仁元(1467)年九月五日条・十日条

[15] 『応仁記』巻第二

[16] 『京都坊目誌』(『新修京都叢書』第17巻、臨川書店、1976年、226頁)

[17] 『尋尊大僧正記』文明十一(1479)年十月十九日条

[18] 高橋康夫『京都中世都市史研究』 思文閣出版、1983年、「第30図 戦国期京都都市図」

[19] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、163頁)

[20] 高橋、前掲書、363頁

[21] 天文五(1536)~天文十一(1542)年は天文法華の乱によって京を追われ、天正元(1573)~天正十五年(1588)は織田信長の上京焼き討ちによって鷹司小路と町小路の交差点付近に移転していた。 『日本歴史地名大系 27(京都市の地名)』 平凡社、1979年、175頁

[22] 『京町鑑』(『新修京都叢書』第3巻、臨川書店、1969年、190頁)

[23] 『京雀』(『新修京都叢書』第1巻、臨川書店、1993年、193頁)

[24]『京羽二重』(『新修京都叢書』第2巻、臨川書店、1969年、15~16頁)

[25] 同年発生した宝永の大火後の復興にあたり、公家町が再編された。 京都市編『史料京都の歴史』第7巻(上京区) 平凡社、1980年、197・211頁