平安時代~鎌倉時代、左京部分のこの小路沿いには市井の民家が集中したと推定されている。
[2]
烏丸小路との交差点の南東の一角には、平安時代中期に因幡堂(いなばどう/平等寺[びょうどうじ])が創建された。
[3]
『因幡堂縁起』によれば、橘行平(たちばなのゆきひら)が因幡守(いなばのかみ/因幡の国司の長官)在任中の長徳三(997)年に海中から引き上げさせた薬師如来像が、長保五(1003)年に行平の京の宿所(烏丸小路との交差点の南東)に飛来したので、仏閣を設けて安置したのが始まりであるという。
[4]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
大宮大路との交差点付近には、定朝(じょうちょう/平安時代後期の仏師)以来の正統を誇る仏所(ぶっしょ/仏像の工房)があったという。
[2]
暦仁元(1238)年、鎌倉幕府が京に篝屋(かがりや/警護のために設けられた武士の詰所)を設置した
[5]際、この小路には東洞院大路との交差点に篝屋が設置された
[6]。
応永十二(1405)年、堀川小路との交差点付近に荘厳寺(しょうごんじ)が創建され、時宗の「高辻道場」と呼ばれたが、天正十九(1591)年に下寺町(現在の六条通の東端付近)に移転した。
[7]
室町時代には、この小路の左京部分は商工業街として発展し、富小路から猪隈小路にかけて8軒の酒屋があった
[8]ようである。
因幡堂は室町時代には有力な町堂(町衆の寄り合いの場)となり、足利将軍家がたびたび参籠する
[9]など、貴賤の信仰を集めた。
[10]
文正二/応仁元(1467)年~文明九(1477)年の応仁の乱は、この小路の左京部分を荒廃させた
[11]が、明応年間(1492~1501)頃までに一応の復興がなされ、この小路は東洞院大路の東~油小路の西が下京惣構(しもぎょうそうがまえ/下京の市街を囲った堀と土塀)の内側に位置し、下京の市街を形成した。
[12]
高辻通の左京部分は天正十八(1590)年、豊臣秀吉によって再開発された。
[11]
一般的に「辻子(ずし)」とは通りから派生した小径(こみち)のことであるが、高辻通の東洞院通~烏丸通は「瑞音辻子(ずいおんのずし/すいおんのずし)」と呼ばれ
[13]、通りそのものが辻子とされた珍しい例である。
[14]
江戸時代の高辻通は、東は寺町通から西は千本通までで
[13]、古道具屋などがあった
[15]。
柳馬場通~東洞院通に藪があったため、慶長年間(1596~1615)から天保年間(1830~1844)にかけて、「藪の下通」とも呼ばれた。
[11][13]
幕末には、一貫町通の西側で肥後熊本藩(細川家)の藩邸に突き当たっていたようである。
[16]
大宮通以西は、昭和時代に入ってから都市計画道路として建設された。
[17]
第二次世界大戦中に高辻通の寺町通から国鉄(現・JR)山陰本線(嵯峨野線)にかけて建物強制疎開(空襲による延焼を防ぐ目的で消防道路を設けるため、消防道路の計画にかかる建物を強制的に撤去すること)が行われ、消防道路として拡幅され、河原町通~寺町通にも建物を撤去して新道が開かれた。
[18]
高辻通の寺町通~烏丸通は、昭和時代初期まで家具屋街であったが、家具屋街も建物疎開の対象となって姿を消した。
[1]
建物疎開では、間之町通以東は通りの南側の建物、間之町通以西は通りの北側の建物が撤去の対象となったため
[18]、間之町通を境に通りがずれている。
現在、堀川通以東は繊維問屋が多く、堀川通以西は友禅の工場が多い。
西小路通との交差点の東、阪急京都線によって道路は途切れているが、歩行者専用の中道踏切があるため、歩行者は線路の東西の高辻通を行き来することが可能となっている。