土御門大路と近衛大路の中間に位置する小路。
小路名の直接の由来は、源倫子(みなもとのりんし/藤原道長の妻)の「鷹司殿」という邸宅名であるとされる
[1]が、鷹司とは兵部省に属する職名
[3]である。
鷹司は鷹の飼育などを担い、平安京造営当初から存在したことがうかがえる
[4]が、貞観二(860)年に廃止されたという。
[3]
平安時代、この小路沿いには鷹司殿をはじめとする公家の邸宅や厨町(くりやまち/役所ごとに京内に設けられた下級役人などの宿所)、猪隈小路との交差点付近に左衛門府(さえもんふ/大内裏の諸門の警護を担った役所)・検非違使庁(けびいしちょう/京の警察や治安維持を担った役所)があった。
[2][5]
この小路の右京部分は、平安時代中期以降の右京の衰退とともに衰退していったと考えられる。
平成八(1996)年度の右京一条三坊の発掘調査
[6]では、道祖大路との交差点を西へ入った地点で平安時代中期から後期の遺物を伴う鷹司小路南側溝が検出された。
平安時代前期に成立し、後に掘り直されたと考えられており、調査地点付近は中世以降耕作地となったようである。
『花洛往古圖』には、仁治二(1241)年二月に鷹司橋の橋供養(橋が完成した時、渡り初めの前に橋上で行う供養)が行われた旨の記述があり、『中古京師内外地図』にも鴨川に鷹司橋が描かれている。
室町時代には、この小路の左京部分に土倉・酒屋・油屋が点在し、商業地として発展した。
[7]
応永三十二(1425)年の『酒屋交名』によれば、高倉小路から大宮大路にかけて9軒の酒屋があったようである。
[8]
文正二/応仁元(1467)年に起こった応仁の乱に際して、公家の近衛家では洛中での戦闘に備え、室町小路との交差点の南東角にあった邸宅に面する鷹司小路に堀を掘ったという。
[9]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続き、近隣が戦場となったため、兵火による延焼も受けて
[10]、大宮大路以東のこの小路は荒廃したと考えられる。
乱後は上京・下京の両市街の外に位置したため、この小路沿いは室町小路との交差点付近を除いて田園風景が広がっていたとみられる。
[11]
元亀四(1573)年、北は土御門大路、南は近衛大路、東は高倉小路、西は烏丸小路で囲まれた地域に、織田信長によって「新在家(しんざいけ)」という都市集落が建設された。
[12]
新在家は惣構で囲まれていたという。
[12]
天正年間(1573~1592)、この通り沿いに貨幣の兌換や諸家の金・穀物を調達する者(長者)が住んでいたことから、「下長者町通」と呼ぶようになったようである。
[13]
東洞院通以東の通りは、天正年間(1573~1592)の公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)の整備や慶長十六(1611)年~慶長十九(1614)年の内裏の拡大などによって消滅した。
[13]
元和元(1615)年、大宮通以西に通りが延長されたという。
[13]
江戸時代には、堀川通より西は中筋通ともいい、商家が多かったようである。
[14]
東は東洞院通まで達していたが
[14]、宝永五(1708)年、公家町が烏丸通の東側まで拡大した
[15]ことに伴い、烏丸通以東の通りが消滅した
[13]。
幕末には、北は下長者町通、南は下立売通、東は新町通、西は西洞院通で囲まれた敷地
[16]に京都守護職上屋敷が建設され、元治元(1864)年に完成した
[17]。
この敷地は、慶応三(1867)年に王政復古の大号令により京都守護職が廃止された後、慶応四(1868)年から陸軍局となり、さらに明治二(1869)年以降は京都府庁となった。
[18]
現在の下長者町通は堀川通以東は比較的広いが、堀川通以西は一方通行の狭い通りである。