平安時代から南北朝時代にかけて、この小路沿いは邸宅街の様相を呈していた。
[4]
平安時代中期には、土御門大路との交差点の南側で、藤原道長の邸宅「土御門殿」(つちみかどどの/東側)と「鷹司殿」(たかつかさどの/道長の妻、源倫子[みなもとのりんし]が住んだ邸宅)がこの小路をはさんで向かい合っていた。
[5]
『紫式部日記』には、藤原彰子(ふじわらのしょうし/藤原道長の娘で一条天皇の中宮)の出産に伴う里下がりに同行した紫式部により、皇子(敦成親王[あつひらしんのう]、後の後一条天皇)誕生に沸く土御門殿の様子が描かれている。
平安時代には、小路に沿って富小路川が流れており、春日小路との交差点で向きを変えて西流していたが、平安時代中期には川が一部埋まって流れなくなっていた。
[6][7]
そこで、藤原実資(ふじわらのさねすけ/平安時代中期の公家)は一筋北の中御門大路との交差点から西流するように流路を改め、さらに数度の曲折を経て自邸(小野宮第/大炊御門大路と烏丸小路の交差点の南西角)の庭に水を引き込むように川を掘ったという。
[6][7]
しかし、水が少なかったため、富小路の一筋東の東京極大路に沿って流れていた中川(京極川)から取水し、富小路以西は同じ道筋で水を引いたようである。
[8]
『玉葉』安元三(1177)年四月二十八日条によれば、同日に樋口小路との交差点付近から出火し、東はこの小路、西は朱雀大路の西、北は大内裏、南は六条大路までの範囲(京の約3分の1)が延焼した。
これを「安元の大火」または「太郎焼亡」と呼ぶ。
平安時代末期には、九条大路との交差点の北西角に藤原兼実(ふじわらのかねざね/平安時代末期~鎌倉時代初期の摂政・関白)の九条亭(九条第)があり、治承・寿永の乱で平資盛(たいらのすけもり)の源氏追討のための軍勢が九条亭の東側のこの小路を通ったという。
[9]
鎌倉時代以降、九条亭(九条富小路亭)が九条家(兼実を祖とする五摂家の1つ)代々に伝領された。
[10]
元弘三(1333)年、後醍醐天皇が二条富小路内裏に入り、そこが建武の新政の中心政庁となった。
[11]
二条富小路内裏は二条大路との交差点の北東角にあったと推定されているが、建武三(1336)年に戦火によって焼失したとみられている。
[11]
延元元/建武三(1336)年には、九条家代々の女性が入寺していた不断光院(ふだんこういん/尼寺)が戦火により富小路との交差点の南西に移転してきたという。
[12][13]
応永七(1400)年には、今小路(九条大路の南、京外の南北路)と富小路との交差点付近の屋敷地等が不断光院に売却された記録が残っており
[14]、九条大路を超えてさらに南へ道が延びていたことがうかがえる。
貞治三(1364)年、足利義詮(よしあきら/室町幕府第二代将軍)は三条坊門小路との交差点の南東角に新邸を建設した。
[15]
この邸宅は、義詮の子の足利義満(第三代将軍)に引き継がれ、永和四(1378)年に花の御所(室町殿)に移るまで義満の居所となった
[11]が、それ以降も歴代の足利将軍に「下御所(しものごしょ)」と呼ばれて重要視され、しばしば使用された。
[15]
室町時代、北は正親町小路、南は土御門大路、東は富小路、西は万里小路で囲まれた地域は、中央部に村上源氏の土御門家の邸宅があり、周囲(街路に面する部分)に公家・武家・寺社の使用人や商人・職人が居住して「土御門四丁町(つちみかどしちょうちょう)」と呼ばれた。
[16][17]
この部分の土御門大路は、鎌倉時代~南北朝時代に本来の道幅10丈(約30m)のうちの北側の4丈(約12m)が巷所化(宅地化)され、道幅は6丈(約18m)に減少したと推定されている。
[16][17]
宝徳四(1452)年に土御門有通(つちみかどありみち)が早逝して土御門家が断絶した後、土御門四丁町の敷地は大徳寺塔頭の如意庵(にょいあん)に寄進されたが、土御門邸の跡地が分割されて土倉などとなった以外は、大きな変化はなかったようである。
[16][17]
室町時代には、この小路は四条大路~五条大路を中心に酒屋が点在した。
[18]
大炊御門大路との交差点の北西角には室町幕府の管領、畠山家の邸宅があった。
[19]
文正二(1467)年一月、畠山政長(はたけやままさなが)が管領を罷免されたことに怒り、この邸宅に火を放ち、上御霊社(かみごりょうしゃ/上御霊神社)に布陣して応仁の乱が幕を開けた。
[20]
乱は文明九(1477)年まで約11年にわたって続いてこの小路を荒廃させ
[21]、乱後は上京・下京の市街の外に位置した
[22]ため、この小路沿いは田園風景が広がっていたとみられる。
ただし、九条周辺では「東九条領」と呼ばれる九条家の所領があったこともあり、九条家は九条亭をなおも拠点として維持し続け、九条家の家司(家僕)たちは邸宅周辺の東九条に居を構えた。
[23]
九条家の家司(家僕)であった富小路氏の家名はこの小路名から取られている。
永正十六(1519)年の九条尚経(くじょうひさつね/戦国時代の九条家当主、関白)の筆による「山城国東九条領条里図」には、平安時代末期~鎌倉時代初期の九条亭(九条第)の所在地と推定されている左京九条四坊十二町(富小路との交差点の北西角)に「中殿」と記されており、これが九条亭ではないかと考えられる。
[24]
また、同図では富小路が九条大路を越えて南へ延び、今小路のさらに南まで続いている様子が描かれている。
[24]
天正十八(1590)年、この通りの五条橋通(現在の五条通、六条坊門小路にあたる)以北は豊臣秀吉によって再開発された
[21]。
この時、通りの位置がそれまでの富小路より全体的に東に移されたと考えられ、一筋西に新たに通された通りが「富小路通」を名乗るようになったが、麩屋町通が平安京の富小路に近い。
[3]
発掘調査
[25](後述)によっても、平安時代以来の位置を踏襲し続けてきた富小路が安土桃山時代に廃絶されたことが判明しており、豊臣秀吉による都市改造によって移設されたことを示している。
江戸時代には、麩屋町通沿いに木地屋・東国問屋・灯台屋・銅道具・竹材木などの商家があり、鍛冶や弓師などの職人が住んでいたようである。
[26]
「麩屋町通」の名は、麩を扱う店が多かったことに由来し
[26]、江戸時代中期にも三条通との交差点付近に麩屋があったという
[27]。
御池通との交差点の北に白山神社があることから、「白山通」とも呼ばれた。
[21][26]
北は椹木町通まで達していた
[26]が、宝永五(1708)年、公家町(くげまち/内裏を取り囲むように公家の邸宅が集められた区域)が丸太町通の北側まで拡大した
[28]ことに伴い、丸太町通以北の通りが消滅した
[21]。
麩屋町通は北へ行くにつれて平安京の富小路から東へずれているため、当サイトでは麩屋町通の四条通以南を富小路にあたる通りとして扱った。
ちなみに、京都御苑の富小路口は平安京の富小路のほぼ推定線上に位置する。
毎年7月に行われる祇園祭では、四条通との交差点(四条麩屋町)に斎竹(いみたけ)が建てられ、山鉾巡行当日、長刀鉾(なぎなたぼこ)の稚児が斎竹に張られた注連縄(しめなわ)を切って山鉾巡行が始まる。